2016年12月27日火曜日

雅塾通信 第108号・・・夜祭りや 中学生の薄化粧(H28.12.1)

中国の書の歴史・・・その36
 前回に引き続き明代の書家の紹介は董其昌(1555~1636)です。
 華亭(江蘇省)の人。字は玄宰。思白・思翁・香光と号しました。17歳で書を志し、22歳で画、30歳前後で禅を学びこの3つの分野が彼の作品の基礎を形成したと言われています。35歳で進士になり、翰林院庶吉という高級役人になっています。
 書は初めから顔真卿を学び、ついで虞世南を学んだが、唐代の書は魏・晋に及ばないと考え、王羲之や鐘繇の臨模に専念しました。
 彼はのちに自分の書を古法・秀潤・卒意の妙において優れているといい、魏晋まではいかなくても、唐人には負けないと自負しています。
 彼の言う良い書とは、主観を盛り上げて卒意のうちに醸成されるもので「天真爛漫」、つまり無作意の自然の境地から生まれるものだとしています。
 この自信は弛まない古典の追求と禅を学んで得た思想の影響と考えられています。

雅塾通信 第107号・・・寺々に 永代墓の建つ里の秋(H28.11.1)

 このところ急速に秋の気配になりました。生活しやすい季節ですが風邪をひかないように注意が必要です。あわてて下着を替えました。お互いに気を付けましょう。
 歳を取ると短期になる人が多いと言われます。私も高齢ですが幸い私の周りには穏やかな人が多いので日常の生活の中では余り腹の立つことはありません。テレビには怒鳴るときがありますが。。
 ところが先日、ある公的機関の窓口で二三のやりとりをした後で「身分を証明できる免許証とかがあったらみせていただいてよろしいでしょうか」といわれ、そのイントネーションに思わず「いやだといったら」と口に出してしまいました。「決まっていることですから・・・」「選択肢がないのならよろしいでしょうかではないでしょう」と言ってから余分なことを言っちゃったなと思いました。
このところ「・・・・でよろしいでしょうか」ともったいぶった言葉で語りかける場面が気になっていたからかもしれません。
客観的にみればそのときの私は「短気な高齢者」になっていたのでしょうか。
客観的にと言えば白紙の領収書用紙をもらって自分で記入するなどと言うことがまかり通っている世界がありました。
パーティ券の領収書らしいが一般社会では考えられないこと、まして税金を使って仕事を人たちは一層の正確さが必要と思うのだが・・・「受付が混んでいるから用紙だけもらったのでなんら法的に違反ではない」と国会で答弁したのにはさらに驚きでした。
 恒常化していたようですが、自分たちを客観的にみられない典型的な姿だと思います。自分は「えらい」と錯覚すると客観的に自分が見えなくなる、とはよく言われること、これを地位と人格が一致していないということなのでしょう。そういえば支持者に囲まれた政治家が失言(本音?)するのもその最たる例です。そのくせ言い訳だけはうまくなる。自分を正当化しようとの魂胆だから端から見ると見苦しい。さてこれをいざ自分に置き換えて、改めて自分のことは自分ではよくわからないと肝に銘じ、言い訳がましいことを言っていないか、を時々振り返ろうと思っています。

 私が所属している中国書画篆刻研究会(今成清泉先生主宰)の第六回竹清書展が先月開催されました。出展作品の中には「蘭亭序」の臨書が二点ありました。その二点の書風が違うので見学者の中から疑問が出されていました。原本が異なっていたためです。どの原本を臨書したかによって書風が変わります。蘭亭序はご存知のように王羲之が書いたものです。ただし残念ながら直筆はありません。今あるのは臨書や写したものばかりです。その数は多すぎて解りません。その中の良いものが残って手本として出回っているのです。

よく目にするのが次の四本です。いずれも唐の三大家が書いたと言われています。
(1)蘭亭八柱第一本・・・これは虞世南臨本で別名張金界奴本と呼ばれています。
(2)蘭亭八柱第二本・・・褚遂良の臨書したものといわれています。
(3)蘭亭八柱第三本・・・馮承素がうつしたもので別名神龍半印本と呼ばれています。もとは褚遂良の臨書したものといわれています。
(4)定武本蘭亭序・・・欧陽訽の臨書したものを石に刻したものといわれています。




雅塾通信 第106号・・・大木に群れる小鳥のすいこまる(H28.10.1)

 先月は晴れた日がほとんどありませんでした。9月上旬から始まった屋根のペンキ塗りがまだ終わりません。見積もり期間は8日間でしたのに。
 このところ、と言ってもしばらく前からですが、朝早く目覚める事があります。3時が4時台です。早すぎますがやけに目もパッチリ頭はすっきりしているときもありもう寝付けそうにありません。
 そんな時は起きてしまいます。
 やらなければならない仕事があると早速取り掛かりますがそれが意外とはかどるのです。
 8月下旬に、神奈川にいる同窓生から、記念誌を出したいから中学卒業後の60年間で、なにか心に残ることがあったら何でもいいから1000文字くらいにまとめて書いてくれないかと、依頼がありました。9月末までということで常にあたまの隅に引っかかっていたのですが、先日も夜中に目が覚め、時計を見ると2時40分でした。しばらく考えていましたが、「よしっ!」と起き、パソコンの前に座りました。あれやこれや行ったり来たりの作業でしたがなんとか1300文字くらいにまとまりました。時計を見ると6時15分、約3時間、朝飯前の仕事にしてはやりすぎたとは思いましたが気分は悪くありませんでした。
しかし、朝ははかどるからと言ってもこの作業は現役の人にはお勧めできません。なぜなら昼間眠くなります。これは眠くなったらいつでも横になれるフリーな人の楽しみ方です。
 さて、人間の目は前を向いてついています。周りはよく見えます。しかし自分は良く見えません。自分を見るためについているのではないかもしれません。そのためか自分の事は意外とわかっていません。無意識のうちで分かったつもりでいるけれど意識して謙虚に自分を見つめなおさないと気が付かないことが多いのです。自戒しなければならないことです。
 さて、書においても自分の欠点を見つけることは上達への大事なポイントです。誰にでも欠点があります。自分では気の付かないところもあります。ですからたくさんの作品を見、人に指摘してもらい、矯正していかなければなりません。
 自分の欠点のあるところを気づかず、知ろうともせず、また知っていても不得手なところを見直すのは大変だからと妥協してしまいがちですが。学ぶものとしてこれも反省すべきところです。

中国の書の歴史・・・その35
 引き続き明代の書家を紹介します。
(2)文徴明(ぶんちょうめい)(1470~1559)
 長州(江蘇省)の人。初め壁と言ったが、祖父の諱を避けて字の徴明を名として、のちに字を徴仲と変えた。また祖父が衡山(湖南省)の人であったので、衡山と号した。かれの書道史上の功績は、晋、唐、宋、元、明人のものを集めて「停雲館法帖」を作ったことにある。その事業には二十年余年間を費やし、全12巻が完成したのは彼の死後であった。書学は、晋・唐の古法に学び、小楷は王羲之の<黄庭経><楽毅論>を基本にしている。
80歳を過ぎてからも傑作が多く<酔翁亭記><離騒経>はともに83歳の作品で明るく爽やかな作である。(参考、中京出版・書の基本資料)



2016年12月25日日曜日

雅塾通信 第105号・・・みどり児のはだしはやはり土がいい(H28.9.1)

 8月は戦争を考える月、そして今年はオリンピックが加わりいつもの月よりテレビに時間を取られました。
世界から205か国、一万人を超えるアスリートが集まりました。
 桑田真澄氏が講演で「プロ野球の選手になるのは東大生になるより難しい(だからといって決して偉いという意味ではなく)」と述べていましたがオリンピックでメダルを取るのはもっと難しい。全身全霊でメダルと取った瞬間、選手の心と体からの激震が見るものに伝わってきます。その表現が激しくても静かでも変わりません。見ている人に強烈に感動を与えてくれました。
 何度もそんな場面を見せてもらい心がときめきました。
 それにしても汗と涙でくしゃくしゃになったアスリートの顔がこんなに美しいとは・・・。
韓国と北朝鮮の選手が一緒に記念写真を撮っているシーンがテレビに映し出されていました。これに象徴される場面がいくつもありました。政治的に対立をしている国同士の選手たちが試合を終わって握手をしたり抱き合って称えあっている姿は同じ努力をしてきたものだけがわかりあえる連帯感でしょうか、スポーツマン精神でしょうか。国境はありません。これはスポーツに限らず音楽などあらゆる芸術活動の中で見られる光景です。

 藤岡市書道協会主催による講習会「瓦泥印を作ろう」が会員を対象にして開かれました。藤岡瓦と同じ土を使って雅印を作るのです。藤岡瓦業界も屋根瓦を作るだけでなく見て楽しむ工芸品や、壁・床などに使用する建築材としての用途もあるようです。
 わび・さびの世界でもある雅印がそれらのなかま入りができると楽しい。講師は「瓦泥印」生みの親でもあり命名者の飯島俊城先生でした。

中国の書の歴史・・・その34
 明代の著名が書家を紹介します。
 (1)祝允明(しゅくいんめい)(1460~1526)
長州(江蘇省)の裕福な読書人階級に生まれた。字は希哲。
生まれつき右手の指が人より一本余計にあり、きっと器用な人になるだろうということで枝指生・枝指山・枝山と号したという。書は幼少より習い、楷書は岳父の李応禎(りおうてい)に学び、行、草は外祖父の徐有貞(じょゆうてい)に学んだ。壮年になって古法帖の臨模に努め、魏の鐘繇の影響を多く受けている。からの小楷は穏やかで格調が高く明朝第一だと称されている。代表作のひとつに諸葛孔明の「出師表」を書いたものがある。

雅塾通信 第104号・・・茄子ハウス 草一つなき広さかな(H28.8.1)

 夏休みに」に入ると小学校の前、しかも通学路に面している我が家は本当に静かになってしまいます。朝7時半と午後4時の通学時間帯が音もなく過ぎ去ってしまいます。ちょっと寂しい気分です。
 ところでまだ7月だというのに、ツクツクホーシがないています。以前はこの時期アブラゼミです。そしてミンミンが鳴いて、やがて8月下旬、そろそろ夏休みも終わりが近づいてきたころツクツクホーシが静かに鳴きだします。その声を聞いて、「それっ!宿題を終わらせなきゃ」と言うのが子供の頃の思い出です。

 7月31日の日曜日、高崎駅東口にある居酒屋”魚民”にて墨盒書道展の反省会がもたれました。運営委員(雅支部からは菅生さん)に福島を加えての計10名が出席しました。
その席で第二回展を二年先の2018年(平成30年)6月に実施することに決まりました。
まだ、会場の申し込みはできてませんが希望としては高崎シティギャラリーで6月21日(木)搬入、会期同22日(金)~27日(水)まで、搬出は27日という予定を組まれました。
二回展に向けて会員のみなさまも一緒に作品のプログラム化をしてまいりましょう。

 藤岡市主催で開かれた第58回夏期大学講座で、元巨人軍の桑田真澄氏の講演を聴いてきました。いままで私の彼に対する印象は、PL学園で甲子園に出場している頃から再三テレビでその顔を拝見していましたが、いつも伏し目がちで陰性っぽい人なのかなと見ていました。
 会場のみかぼ未来館大ホールは超満員で講演に先立って挨拶した新井市長は「過去15年間の市長時代の講座で一番の盛況っぷり」とその人気ぶりに驚嘆の声をあげていました。
 演題は「夢への挑戦、そして実現へ」でした。”桑田は話がうまいよ”とはうわさで聞いていました・・・でないようはまったく当たり前の事ばかり、難しいことばや理屈は一切なし。
例えば「物事には裏と表がある、その両立が必要」いわゆる攻撃と守り、学問とスポーツ、結果とプロセス、「挫折、失敗のすすめ」「短期集中、継続の大事さ」そこから生まれる「努力することの楽しさ」「自分らしさを大切にすれば力になる」、また大リーグの経験から「本物を見て、ふれること」の大切さなどなど、これらのテーマを自分の頭脳と野球人生を通しての経験などを踏まえて自分の言葉でゆっくりと、聞き取りやくす語りました。その思いやりが込められている声としぐさに1時間半、まばたきをする時間も惜しいくらい聞き入ってしまいました。好感度満点でした。
 最後に氏は現在48歳だそうですが70代が一番多かったこの会場でおこがましいことを語った無礼を詫びつつこれからの自身の人生を「まだまだ苦難は続く」と締めくくっていました。

中国の書の歴史・・・その33
 明代(1368~1644)に入ります。明代276年間は大きく三つに分けられます。
 初期の書は元末の風をそのまま引き継いだあまり傑出した書家はいませんが、いわゆる三宋二沈(さんそうにしん)と呼ばれている宋璲(そうすい)、宋克(そうこく)、沈度(しんど)、沈○(しんさん)
などがあげられます。
 中期になると王羲之系からあらゆる書法をとりいれた理知的で平明な書風が生まれました。蘇州を中心とする呉中派と呼ばれる書家たちです。代表的な人たちは沈周(しんしゅう)、李応楨(りおうてい)、呉寛(ごかん)、祝允明(しゅくいんめい)、唐寅(とういん)などです。

2016年8月28日日曜日

雅塾通信 第103号・・・初採りの ぱこんときゅうり丸かじり(H28.7.1)

 第一回の墨盒書道展が無事終了しました。出品者のみなさんお疲れ様でした。
昨年6月に運営委員会を立ち上げて松本熙盦委員長以下13名の委員が七回の会議を開き綿密に準備を進めてきました。元漱雲会の支部など七つ、出品者53名でした。
 ここで書展の種類について少し触れてみます。大きく分類すると次の三つに分けらえると思います。(1)公募書展、(2)グループ展、(3)個展です。これをさらに細かく分類すると

(1)公募書展
 (イ)新聞社主催の書展
   代表的なのが、毎日書道展、読売書法展、産経国際書展、東京書作展などです。
   その他、地方新聞社主催のものもあります。
 (ロ)団体主催の書展
   日展を頂点に各書道団体が主催するもので、代表的なのが日本の書展(全国美術振興会)
   謙慎書道会展、創玄展、日本書芸院展、書海社展等々数限りないと言えます。
 (ハ)地域密着の公募書展
   県展、市民展、区展等々、行政単位の公募展もほとんどの地域にあります。

(2)グループ展
 二人展からはじまって、10名単位、なかには数百名単位の規模の大きなものもあると言います。
 年間を通じて全国のギャラリー等で開かれるグループ展の数はほとんど数えきれないくらい多い。主催者を中心とするもの、書思想を共有するものなど、その性格も実にさまざまで今回の墨盒書道展もこの部類に含まれます。

(3)個展
 書展のあり方としては、主張や傾向がはっきりしており、芸術活動としては理想的な形式と思います。
 (イ)企画展
   美術館の学芸員などが企画する催しで、その評価は高いと言えます。少し前になりますが
   2002年に開かれた東京国立博物館の西川寧生誕100年記念特別展や、京都市美術館に
   おけるかなの日比野五鳳展などは代表的でしょう。近くは国立新美術館・北海道立函館
   美術館の金子鷗亭展、岡山県立美術館の高木聖鶴展、千葉県立美術館の種谷扇舟展
   などがありました。
 (ロ)個人
   個展のほとんどは、この個人企画のもので、年間を通じて大中小規模でたくさん開かれて
   います。個展は書展のあり方としては理想的と思いますが、作家の負担が大きいのが現実
   です。

雅塾通信 第102号・・・苦瓜の 新芽虚空に思案顔(H28.6.1)

中国の書の歴史・・・その32
 元代を代表する書法家のもう一人は鮮于樞(せんうすう、1257~1302)です。漁陽(現在の河北省薊=けい県)の出身で、永らく銭塘(現在の浙江省杭州市)に居住し高級役人として務めました。
 字は(あざな)は伯機、号は困学眠、直案老人、虎林隠史などと称しました。
詞賦をよくし、書法名画古器物の収蔵に富み、また鑑定もよくしましたが、書画に長じて高名になり当時の第一人者趙孟頫より三歳年下で北方の人らしく豪放素朴、書風も晋唐の伝統を守りながらも独自の世界を切り開いています。これは南方の貴族出身の趙孟頫には見られない部分であります。
 晩年は浙江省都事を最後に西湖のほとりの虎林に室を移し、困学齋と称して門を閉じ俗客を謝絶して読書に励み、琴を弾じ書を楽しんで晩年を過ごしたと言われています。
 下の作品を前号趙孟頫の作品と比較してみるとわかりやすいでしょう。

2016年7月3日日曜日

雅塾通信 第100号・・・スーパーで彼岸を知った若きママ(H28.4.1)

通信も100号になりました。平成17年の12月3日の忘年会の席で”一年を振り返って”と題して発行したのが第1号でした。それから三年間は、一年の行事の記録として12月に1回発行していましたがある時会員の方から墨の質問を受けました。
 常々書を学ぶということは書くこと以外にもそれを取り巻く種々の事柄を知ることが大切だと思っていましたし、また自分が学ぶことになるとも思い書に関係する事を書いて月に一度会員の皆さんに配布しようと決めました。
 勉強ばかりの内容では退屈と思い季節の移り変わりや、時に感じたことを思いつくままに、そして記録しておくべき塾の行事なども書き入れました。
 今までに、墨、筆、硯、漢字の話(歴史)、中国の書の歴史(継続中)などを随時載せてきましたがなんとしても勉強不足、いまだに表面を撫でた程度です。手詰まりは自己責任で仕方ありませんが間違ったことを書かないように気を付けました。
 なにしろ書・漢字の歴史は3500年以上も前にさかのぼるものです。付け焼刃で語れるものではないことは痛感しています。
 それでも書を学ぶ上で大事なことだと思ったのは、漢字の話=書の流れです。いま自分が習っている字がいつの時代のものでどんな経緯をたどって出来上がってきたのかを知ると古典を見る目も変わってきます。なんでこうなっているのだろう・・・が少しでもわかるとうれしいものです。
 筆・墨・硯・紙のことを文房四宝と言います。文房とは古き時代には書斎のことを言いました。文房具の中でも前四種は特に尊重して宝物として扱ったのです。
 文房至宝に囲まれた書斎を書をたしなむ人たちと語り合えばこれは至上の悦びでしょう。一献あればなおさらです。いつかそんな時間もほしいものです。
 ところで冒頭に載せている俳句ですが、最初は目についた先人の句を借用したりしていました。しかしだんだんに自分で「作ってみようー」という気になりました。自己流・独学で始めましたが結構苦戦をしています。語彙の貧しさ感性の乏しさを思い知らされています。月一句、形になっているかどうかもわからずに駄作を作り続けています。

中国の書の歴史・・・その30
 通信83号から唐代に入り、11人の書を善くした人を紹介してきましたが、唐朝300年の最後を飾る人として柳公権(りゅうこうけん=778~865)をしょうかいします。
 字(あざな)は誠懸(せいけん)、柳少師ともよばれました。顔真卿に遅れること69年、顔の没年には八歳でした。顔真卿に直接指導を受けたことはありませんがその書は顔法を学び、さらに力強い独自の筆法をあみ出したといわれています。
 中央政府で皇帝の側近にいた彼は唐末の腐敗しきった暗君たちを真正面から諭したといわれ、こんな逸話も残っています。公権の筆跡に興味をもった皇帝穆宗が公権に用筆法を尋ねたとき「心正しければ則ち筆正とし、筆正しきは乃ち法とすべきなり」と答え、用筆の秘訣にかこつけて政治の心得をそれとなく諭したのですが皇帝が気づいたかどうかは別として、この言葉が後世、書の心得を説く名句となっています。古くから書の風格というものは、その人の個性やひととなりと不可分のものではない、と語られていますが公権の生き方と書風は後の批評家にこの格言の例として取り上げられるほどの人物だったようです。

2016年4月17日日曜日

雅塾通信 第99号・・・穏やかに 朝のスタート 麦青む(H28.3.1)

 1日24時間、睡眠に8時間使ったとして残り16時間が誰にでも与えられた時間です。仕事その他、社会とのかかわりの中で使う時間も当然自分の時間ですが純粋に自分の為に自由に使える時間と言ったらだいぶ少なくなってしまうでしょう。
 すでに十数年前にリタイヤした私は、24時間まるごと自分のもの、と思っていますがそうなるとまたなまけの心が頭を持ち上げてきます。1日1時間の運動をする時間さえ取れずに過ごしてしまいます。私のようなモグラ生活者には運動は必修科目です。わかっているのにやれないのは、実は本当にはわかっていないことなのでしょう。
 反省しきりの日々ですが自分のおかれた環境・立場の中で働き、努力・苦労を通して悦びを得ていく、これが実のある生き方ではないかと自分自身に問うています。

 塾通信95号で日本の書道がユネスコ無形文化遺産登録に向けて働きがけが進んでいると紹介しましたが、昨年11月に第4回の登録推進協議会会議が開かれ、申請名称が「日本の書道文化-なかでもかな書道を-」から「日本の書道文化-書初めを特筆して-」に変更になったと紹介されていました。(墨誌239号)。これは書初めという”社会的習慣”を前面にアピールするのが狙いだそうです。
 書初めといえば小中高生の正月の書初め大会を思い起こしますが、家庭でもそんな習慣が定着してくれれば秦に根付いた書道文化と言えるかもしれません。

 このところ新聞紙上で二度ほど目にしました記事ですが手書き文字の「こうあらねばならぬ!」が少し緩和されてきそうです。記事には、文化審議会漢字小委員会が手書き文字の「正解」を拡大し、「とめ」、「はね」などに細かい違いがあっても誤りではなくさまざまな字形が認められることを解説した指針案を国語分科会に報告した、とあります。
 今までも、細かい違いは許容されてはいましたが「小学校学習指導要領」の字体以外は間違い字と子供たちが認識してしまうのは歴史ある漢字の生い立ちから見ても寂しいことです。
 この取り組みは書に携わるものとして歓迎です。

雅塾通信 第98号・・・南天の大きくひしゃげて朝の雪(H28.2.1)

中国の書の歴史・・・その29
 今までに唐代の代表的書人9名とその作品を紹介してきましたが更に続けます。
 ★陸 柬之(りくかんし)=(唐・至徳3年~貞観3年 585~638)
  太宗から高宗にかけての人、高級役人、虞世南の甥っ子。子供のころは書を虞世南に学び長じて二王(王羲之、王献之)を学び行書を得意としました。晩年には二王に逼り書名が大いに上がって、ついに巷では、欧陽詢・褚遂良と並んだと評されました。その書には、
「五言蘭亭詩」=王羲之ら四十数人が山陰の蘭亭に会し享楽しながら作った詩を臨書したものです。
「文賦」=端正・秀麗な王羲之正統派の行書で、書名はありませんが陸柬之の書と見られています。
その他「近得帖」などが残っています。
 ★薛稷(せつしょく)=(649~713)
 名門の出であり秀才、進士に合格し文章家としても名を知られ、初唐の三大家にこの人を加え唐の四大家と呼ばれています。褚遂良の書風をさらに発展させ、たおやかで華やかなうつくしい書です。
「信行禅師碑=しんんぎょうぜんじひ」=706年の建碑、褚遂良を学んだことが伺える書風です。
「昇仙太子碑」=699年の刻、碑陽(碑の表)は則天武后の撰並びに書、碑陰を薛稷が書いています。

2016年4月16日土曜日

雅塾通信 第97号・・・餅を伸す 頑丈な腰 二児の母(H28.1.1)

気温15度と信じられないような暖かさで迎えた新年でした。今年は申年、動物では猿が充てられています。干支は丙申(へいしん、ひのえさる)です。
 猿は最も人間に近い動物ですが、「猿知恵」「猿真似」などあまりよい故事が浮かびません。せめて「猿も木から落ちるがまた登る」の根性で今年も頑張りましょう。今年もよろしくお願いいたします。

 暮れも押し詰まった23日、誘われて数人で多胡碑を見学に行きました。
 上野三碑がユネスコ世界記憶遺産の国内候補に選ばれたことや楫取素彦が多胡碑保存へ尽力したというテレビ番組の影響もあってか今多胡碑への関心が高まっています。
 「この字はうまいのかね~?」よく聞かれる質問です。確かに形も良くないようだし傾いたり歪んだり行も曲がったりで整然とした楷書と比較すると上手とは見えないかもしれません。
 この碑は711年の建立です。奈良時代が始まった翌年です。書いた人の名前は残っていませんが中国・朝鮮からの文字の影響が大きかったことは当然のことと思います。
 その頃中国はすでに唐代になり、100年近くたっていましたので、楷書はすでに完成していましたが、まだその書体が日本で普及するのには、さらに時間が必要だったと思います。
 多胡碑からさかのぼること200年、中国南北朝の北魏時代に鄭道昭(ていどうしょう)という人が書いた摩崖碑、「鄭文公碑=511年」、「瘞鶴銘(えいかくめい)=514年」の字体に多胡碑はよく似ています。多胡碑は南北朝時代の書体を相当学んだ人が書いた碑と思われます。
  多胡碑記念館にはこの2つの摩崖碑の拓本が整本・套本(せいほん・とうほん=採拓したままのもの、石碑の全体の概観がわかる)で展示されています。比較してみるとなるほどと思うところがあります。ほんとうによいものを理解するには時間がかかるものです。多胡碑の字もその領域かもしれません。
 多胡碑は1300年も前に建てられましたがかなり良好な状態を保っております。江戸時代中期からの保存状況は記録にありますがそれ以前ののことは確かなことはわかっていません。憶測ですが地域の人たちが大切に守っていたのかもしれません。
 この碑を世に知らしめたのは下仁田生まれの国学者・書家であった高橋道齋(1718~1794)です。当時江戸で一流の書家であった沢田東江を多胡碑に案内して採拓し同好の人々に送りその存在を広めました。その後拓本は、当時交流のあった朝鮮通信使によって朝鮮・中国にわたり、清朝末の文人趙子謙(1829~1884)も臨書をしています。また楊守敬(1839~1915)が編纂した楷書辞典「楷法溯源=かいほうそげん」には多胡碑の文字が39文字も採用されています。多胡碑の文面からもわかるように群馬の古代はいろんな意味で面白いかもしれません。

雅塾通信 第96号・・・山道の 踏まれるままの落ち葉かな(H27.12.1)

”まだまだ”が”もう”に代わって早師走、今年こそ早めに事を片付けよう!・・・毎年そう思っていて終わらないだから今年もダメでしょう。しかたないからぎりぎりまで頑張ってゆったりとした信念を迎えよう。と開き直っています。

 先月末、県展開催中の県立近代美術館で、西安交通大学博物館長の鐘明善(しょうめいぜん)先生が「中国書法の現在と未来について」と題して講演会を開きました。
 先生の名前はかねてから伺っていましたし講演内容も興味があったので聞きに行ってきました。
通訳付きでしたので一時間半以上の講演でしたが中身は一時間弱くらいだったでしょうか、解りやすいお話でした。要約すると・・・中国も文革後「改革開放」政策をとって外国からの文化、思想も急速に入り込み、書の世界もその影響を受けて良い面、悪い面が出た。
 評価すべき面は、中国書法(中国では書道の事を書法という)に新しい考え方をもたらしたこと、例えば紙面構成の概念と、作者の感情をどのように書作品として表現し伝えるかなど。マイナス面は、機械的に国外の傾向に影響され、漢字本来の形を崩したり、漢字の書き方から離れたりして、中国の書法の正常な発展を阻害したこと。この影響で1980年代の全国書法展には「美しくない字」が展示され賞を受けることもあり試練に立たされた時代であった。
 それでも、このような単純に視覚的な衝撃のみを強調した創作方法の影響は短期間で終わり、2000年以降は伝統の軌道に戻り、外国の形式を選択的に取り入れ、「伝統を受け継ぐことを前提にした各自の個性を模索」するようになってきた。
 2012年から書法教育を正式に小・中学校に取り入れ芸術の社会化をめざし、安定した発展の道を歩み始めている。
 そして結びには日中両国の書法家がともに努力し、学びあい、書法芸術を発展させ、さらに世界に誇れるものにしていけるように頑張りましょう、と呼びかけました。

11月22日には本庄第一高校書道部の展覧会「桐華展」を見てきました。顧問の高橋維周先生が藤岡書道協会の会員なので今までも何度か鑑賞しています。会場は本庄市文化会館です。
 埼玉県展に入選した臨書作品をはじめ好きな言葉を自由に書かせた(と思われる)作品、それに篆刻など合わせて76点、先生が2点、そのほか二階の第2会場には台湾との交流展として50点あまりまさに所せましと展示してありました。
 そのほか「書道パフォーマンス」、屋外の特設会場で18名ほどの女生徒が羽織袴姿で音楽に合わせて踊ったり跳ねたり、おなじみ超特大筆をふるっての揮毫は躍動感があって生徒も楽しそうでした。
 できあがった作品はけっこう様になっていました。体力も必要だし、使用したあの筆を洗うのはそぞかし大変だろうなと思った次第です。

雅塾通信 第95号・・・澄み渡る天空に鳴る秋風鈴(H27.11.1)

 気温20度、湿度30パーセント、これが生活するのに一番快適な陽気だそうですが晴れた日の今がまさにそうです。
 しかし、毎朝目を通す新聞には今日も(10月31日付 上毛三面)これでもかというような信じられない記事がいっぱい載っています。
「マンション傾斜、旭化成改ざん数十件か・公表中止また混乱」「東洋ゴムに新たに2880個改ざん・社内で不正繰り返す=記録を取り始めてから計46,646個の不正防振ゴム」「検定中の教科書見せる・三省堂、社長ら集め謝礼」「警察官ら70人書類送検・虚偽の交通違反報告書作成の疑い」「大和ハウス、防火扉1204棟で不備」などの記事が紙面の三分の二以上占めています。
 驚くべきことは、この不祥事が今まで信用がおけると思っていた一流の企業や組織ばかりだからです。何を信じていいのか、社会の人心に与える影響は計り知れないものがあります。何が原因なのか、思いめぐらす必要があるでしょう。

 うれしいニュースをひとつ、このところ日本の伝統文化、和食・和紙が二年連続でユネスコ無形文化遺産に登録されています。現在すでに日本では22件(世界では314件)の文化遺産が登録されているそうですが、書道界でもその動きがはじまっています。
 今年の4月に「日本書道ユネスコ登録推進協議会」が発足し、会長に荒船清彦(公益財団法人・全国書美術振興会会長)が就任し広範な書道関係者の協賛を得て具体的な活動が始まっています。
 スローガンやロゴマーク、ポスターなどいずれ完成するでしょう。
 申請名称は「日本の書道文化-中でもかな書道を-」が案として挙がっていますが、これは国際社会に日本の独創性=かな文字をアピールするための名称であり、もちろん日本の書道文化全体を登録の対象として運動は進めていくことに変わりはありません。今後の推移が楽しみです。

雅塾通信 第94号・・・爽やかな 風がつぎつぎと頬を過ぎ(H27.10.1)

 9月1日、知人の個展を二つ見てきました。
一つは篆刻家の計良袖石先生です。5年に一回、6~7回目の個展と思います。東京駅地下街のギャラリー八重洲で開かれていました。
 刻字と篆刻が中心で「書はありません」と先生は仰っていましたが作品の脇にある自筆の解説文と刻字や篆刻作品を見ていれば書作品があるのと同じこと、とお見受けしました。
 先生の魅力は理論と実践の統一感です。そこに自分の立ち位置を置いて微動だにしません。
「王羲之書法の普遍性はその筆法にあります」と分析しております。

 もう一つは来年25周年記念、馬景泉(まけいせん)先生の個展です。
虎ノ門にある”東京中国文化センター”で開催されていました。かれも篆刻家です。
 馬先生はバブル期であった1990年に中国残留孤児の家族の一員として来日し、上野の美術館の前、いわゆる露店で印刀一本で生活を支え、そこをスタートして10数年で江戸川区に家を買った程の努力家、芸術家、実力者であります。
 「石刻は一生我と共にある」という一節を刻し、芸術に終わりなしとの言葉を自分に課し、胸の内には「中国の篆刻芸術」を通じて「日中友好の使者」としての役割を果たしたいと語っていました。
 最近では藤岡瓦の土を使った印、瓦当、碑(せん=粘土を焼き固めて作った建築材料、この場合文字を刻み込んだ装飾風のものをいう、大小有)を盛んに創作しています。この材料を使って壁、床などの随所にはめこんだ建物を作ったならば独特な雰囲気の建物になるだろうと想像が膨らみます。広い会場でしたがそれらの作品も多数陳列されていました。
 篆刻の実演も見せてくれましたが、運刀を見、呼吸を感じているうちになるほどと気の付くものがあり、実際に帰宅してからすぐにまねをして彫ってみました。これはうれしい収穫でした。
 1日で二つの個展、忙しくはありましたが、独自の世界を持っているお二人の姿を拝見して心満たされた気分で帰ってきました。

雅塾通信 第93号・・・花瓶からねむそな顔の雨蛙(H27.7.1)

墨盒(ぼくこう)=墨壺である。矢立の墨壺を大きくしたようなものであるが、日本にはなく、中国の清朝末期に盛行する。表面は真鍮で内側は銅である。大は15センチ四方から小は5センチ四方の四角壺である。
 使い残した墨液をこの中に移して貯えて置くと墨液が腐敗しない。上部には種々の文字、絵などを刻していて雅趣がある。蘭亭序、赤壁賦、朱子家訓などのような名文、青銅器銘文、瓦当文などを刻したりしている。円形のものもある。(宇野雪村著・文房古玩辞典)

2016年3月20日日曜日

雅塾通信 第92号・・・山降りて 目にはやさしき青葉かな(H27.6.1)

中国の書の歴史・・・その28
 顔真卿(がんしんけい)=初唐から中唐にかけて、書法を遵守し、それにさばられたやや窮屈な書も時代を経るにしたがって徐々に変化をし、革新的気風が生まれてきました。それを大いに助長したのが顔真卿です。しかし彼が伝統を基盤とする正当な書法を無視したかと言えば決してそうではありません。書法伝授の系譜(古今伝授筆法)によれば、鐘繇-衛夫人-王羲之-王献之-智永-虞世南-欧陽詢-張旭-李陽冰(りようひょう)‐徐浩-顔真卿・・・と系統は続いています。
 初唐の人々が貴族的な調和と均整を求めて、人間のよそいきの一面だけを出していたのとは対照的に、顔真卿という人は、当然濁りも併せ持っている人間のありのままの部分を表出しても動じない人物だったようです。
 見栄も功利もなく、あるがままの自己をさらけ出すという真の人間性の躍動の書を創造したと言えるでしょう。伝統的な書則や書法の上に、積極的な自己解放への道をひらいたことは、中国書道のコペルニクス的大転換と言えるかもしれません。(中教出版・書の基本資料参照)

雅塾通信 第91号・・・新入生 机見てねと駆け上がり(H27.5.1)

中国の書の歴史・・・その27
 唐代が始まって約100年、開元(713年)から天宝年間(742~755年)はいわゆる盛唐の時代です。皇帝は玄宗です。王羲之崇拝から始まった唐代の書も、海外からの絵画、音楽、芸能、詩など多様な文化の交流により変化をもたらしてきました。王羲之の書も崇拝はされていましたが形だけをまねるだけの精彩さを欠いたものになっていきました。この書は「院体」の書とよばれさげすまれたものもあります。
 そんな中でも私たちになじみのある人は李邕(りよう678~747)です。
 幼いころから秀才として知られ、玄宗皇帝の時、北海太守となったことから李北海(りほっかい)とも称されております。
代表作は「麓山寺碑」「李思訓碑」があります。

2016年3月14日月曜日

雅塾通信 第90号・・・春暁や 冬の名残の庭を掃く(H27.4.1)

中国の書の歴史・・・その26
 書譜=唐代に書かれた孫過庭の書譜、書をする者はだれもが一度は学ばなければならない古典の一つです。現代ではあまり実用性のない草書作品ですが癖のない書体とその書かれている書論は、書いても読んでも興味の尽きるところはありません。
 一般的に書を学ぶには楷書から入ります。続いて行書、草書と段階を踏むわけですが正しい楷書による字の構成を身につけておけば、行書、草書に進んでも基本的な形は崩れることはありません。
 書は線質が命ですがそれを生み出すのは運筆の速さの変化です。楷書、行書にも送筆の遅速はありますが草書にはさらにそれが必要です。
 書譜の現代語訳(松村茂樹訳)のなかにこんな一文が載っています。
 筆をためながらゆっくり書くということがわかっていない者が、ひとえに強く素早く書こうとしたり、迅速に筆を運べない者が、かえっておそく重苦しい運筆をしたりすることがある。
 そもそも強くすばやく書くなどということは世俗を超越した機転によるものであり、遅くとどまるように書くというのは鑑賞の情趣のためである。速筆を会得した人が反対にゆっくり書こうとするならば、ゆくゆくは美を醸し出せるようになるであろうが、もっぱら遅筆におぼれていては、人並みに外れて優れることはできなくなってしまうであろう。
 速筆ができた上ではやく書かないのは、いわゆる筆をためながらゆっくり書くというすぐれた技法であるが、遅筆しかできないために遅く書かれたものなど、どうして鑑賞に値しようか。
「心は閑にして手は敏(すばやい)」という境地に至らなければ、速筆と遅筆に兼ね通じることは難しいであろう。以上
春はのびのび、草書を学ぶにはよい季節です。

2016年3月13日日曜日

雅塾通信 第89号・・・埋め立てる休耕田や春寒し(H27.3.1)

中国の書の歴史・・・その25
 則天武后(623~705)=姓は武氏、名は照、太宗の才人=女官(後宮との説もあり)。太宗崩御のあと一時尼となったが高宗に望まれて後宮(こうきゅう)に入り、高宗の寵愛を受けて皇后となる。
 高宗崩御後、武氏一族を登用して周国(690)を名乗り自ら帝となった。ここで唐王朝は一時中断する。則天武后は制度改革などに専横を極めずいぶんと乱暴な政治を行った。残忍にして殺戮を好む。しかし武后は文章詩賦をよくし、書法に長じた。代表作「昇仙太子碑」がある。
 また則天文字19字を制定したり、「万歳通天進帖(ばんざいつうてんしんじょう」=王羲之および王家一族の書跡を集めた帖」を作ったことは注目されるところです。

孫過庭(648?~?)=名は過庭、字は虔礼(けんれい)。またその逆という説もある。かれの生没年は明らかにされていないが、唐の太宗の晩年、貞観20年(646)前後から則天武后の初年(690)ころの人であるらしい。
 若いときから忠実な人柄であったが、不運・不遇で40歳ごろになってようやく仕官したものの、讒言(ざんげん)によって辞めさせられている。有名な草書書論「書譜」はその後書かれたものと言う。(参考資料、書の基本資料・中国書道辞典)

雅塾通信 第88号・・・書初めを 選ばれましたと 明るい目(H27.2.1)

中国の書の歴史・・・その24
 虞世南(ぐせいなん)=欧陽詢(おおようじゅん)より一年後にうまれた虞世南(558~638)は小さい頃より学問を志し、博学・多識として聞こえていました。特に優れていた書法においては欧陽詢と同じく、太宗皇帝に重く用いられました。
 書は智永、王羲之に学び晩年の楷書は沈着にして清らか、風流な趣がただよっているといわれています。
代表作は孔子廟堂碑(629年ごろ)です。
 これは虞世南が太宗の命により孔子廟の再建を成したことや、太宗の文教復興を記念して建てられた碑です。勅命により、虞世南撰文、ならびに書で、虞世南唯一の石刻碑でしたが早くに(唐・貞観年間)火に燬(や)けて(異説あり)原石はありません。しかし原石唐拓と称されている拓本(孤本という)が一本残されています。今は三井氏聴氷閣(みついしていひょうかく)に稀代の墨宝として保存されています。書風は格調高く、穏やかで温かみの感じられる名品です。

 初唐の三大家のもう一人は褚遂良(ちょすいりょう596~658)です。彼は虞世南より38歳、欧陽詢より39歳年少です。彼の父・亮(りょう)が前記二人と弘文館学士の同僚で親しかったため、いわゆる親の七光りもあったか、遂良は太宗・高宗の二代に仕えました。
 書人としての褚遂良は、はじめは虞世南に学び、王羲之も研究したと言われています。その才能は欧陽詢も高く評価していました。
 貞観12年(638)に虞世南、その3年後に欧陽詢がなくなり、当時、国家的事業のひとつとして王羲之の真跡を二人の協力の下、収集、鑑定して宝蔵していた太宗皇帝は、大いに困惑したようですがそれを助けたのが褚遂良でした。彼の書として有名なのは「雁塔聖教序」「枯樹賦」「孟法師碑」「房玄齢碑(ぼうげんれいひ)」などです。

雅塾通信 第87号・・・売初(うりぞめ)の和菓子選んで訪れぬ(H27.1.1)

あけましておめでとうございます。
今年は未年(ひつじ)、なんとなく穏やかな印象ですが。。
 十二支では、第八番目、方位は南から西へ三十度の南南西の方角、時刻は現在の午後二時ごろ、または午後一時頃から午後二時ごろまでの間、月では八月、動物では羊が充てられています。
 未の字は、木のまだ伸び切らない部分を描いた象形文字。「まだ・・・していない」の意味で、未完成、未定、未熟などと使われています。
 羊(未)に関する故事・ことわざでは、<羊頭狗肉>=羊の頭を看板に出しておいて、実際には犬の肉を売る。見せかけは立派でも中身が伴わないこと。<多岐亡羊>=分かれ道が多すぎて羊を逃がすことから方針があまりにも多いため、どれを選んでよいか思案に困ること(以上十二支の話題辞典より)
 小学生のころ、唱歌で「箱根八里」を教わりましたが、歌詞の中に”昼なお暗き杉の並木、羊腸の小径は苔滑らか”という一節がありますが、羊腸の小径の意味が分からずに歌っていて、そのまま蓋をして大人になってしまったことを思い出しました。
 いずれにしても羊はおとなしくて従順な性格の代表ですが、暖毛に隠れた瞳を覗くと、「世の中の出来事と私、関係ありません」と言っているようです。

中国の書の歴史・・・その23
 欧陽通(おおようとう)=欧陽詢の晩年の子(第4子)で幼少にして父を失い、母によって父の欧法を学び、大小欧陽と併称されました。父の書より書線が引き締まり筆勢が溌刺としているとの評もありますが、縦画、骨格、品格が父には及ばないといわれています。
 現在残っている作品は少なく、道因法師碑=下図左(龍朔三年・663)、泉男生墓誌銘=下図右(せんだいせいぼしめい・調露元年・679)の二件だけです。



雅塾通信 第86号・・・秋うらら 里帰りし娘(こ)の昼寝かな(H26.12.1)

 先月、部外者ではありますが誘われて歴史散歩の会の皆さんと水戸散策へ行ってきました。
 江戸末期幕府崩壊の落日を感じながら尊王攘夷に生きた九代藩主徳川斉昭の業績などボランティアの解説を聞きながら見学しました。
 斉昭は「烈公」と呼ばれただけあって激しい時代背景の中、現代の水戸市の繁栄の基礎を精力的にいづいた人のように思えます。学問の府である「弘道館」を立てて文武の修業の場とし、「偕楽園」とその敷地内に建てた、わび、さびの館「好文亭」で緊張緩和・いわるゆ遊ぶ、という硬軟両政策を実施しました。また、兵糧と飢餓の祭の食料として役立てる目的で梅の栽培を命じています。
 斉昭の政策には水戸学と言われる儒教思想や尊皇の国家意識と共に陰陽哲学を多分に取り入れた考えが根底にあるように感じました。
 随所に斉昭の気力の充満した力強い書や碑が直筆で残されています。楷書・行書・草書・隷書・篆書・かな、すべての書体に通じていて驚きです。
 斉昭は「桜田門外の変」が起きた1860年に60歳で亡くなっていますが、水戸といえば「偕楽園」というほど有名になった日本の三名園を中心に、日本中から観光客が訪れる名所のなっています。
 もっともっと深く知りたい街でした。
 崖急に 梅ことごとく斜めなり・・・子規

中国の書の歴史・・・その22
 欧陽詢=初唐の三大家の一人で欧陽は複姓です。字(あざな)は信本(しんぽん)。湖南省長沙の人で 陳・隋と経て、唐の初代高祖に仕えています。二代目太宗が即位(626年)したときはすでに70歳になっていて楷書の極則と呼ばれる九成宮醴泉銘(632)は76歳の時の書となります。
 書風は北派流といわれることが多いが、神田喜一郎氏は「書道研究」誌で「王羲之・王献之を学び、南北数家の法を混一して別に一家を成した」「虞世南が専ら二王の書を主とし、南派の書を良くしたのとは対照的立場にあったものというべきである」と述べています。

雅塾通信 第85号・・・秋うらら 里帰りし娘(こ)の昼寝かな(H26.11.1)

中国の書の歴史・・・その21
 前回、太宗皇帝の作品、「晋祠銘」と「温泉銘」を図版で載せましたので、中国書道辞典・書の基本資料誌を参考にして概略を説明します。

 「晋祠銘」=この碑は春秋時代の晋国の祠廟に建てられているのでこの名があります。今の山西省太原市の晋祠に現存しています。
 太宗皇帝が高句麗征伐の帰途にここに立ち寄り、神に天下統一を告げ、報恩のため撰書して建てたものです。碑身195㌢×123㌢、題額は*飛白書(ハケ筆のようなもので書いた書体)で「貞観廿年正月廿六日」と三行に大書されています。本文は行書28行・行44字~50字、書は筆力があり堂々と王者の風格を備えています。石質が良くないため筆法の鋭さ、すばらしさは欠けています。
 本来、碑文は厳格典雅を重視し楷書、隷書、篆書などで過去には書かれていましたが、皇帝自ら行書で書いた為、以来、行書碑が流行しだしました。行書碑の第一号です。

「温泉銘」=これも撰文は太宗自身です。驪山(りざん)温泉の霊効や風物について述べられた碑で、これも堂々とした行書です。文字は王羲之風で「晋祠銘」によく似ていますが筆に速度があり流麗、筆力・骨力を蔵して線の強さ・美しさはこれを凌ぐといわれています。(前回図版参照)
原石はすでに無いため原碑の姿は不明ですが唐拓と推定される拓本が敦煌石窟で発見され、行書48行・250余字を在しています。現在はパリの博物館に蔵されています。

*飛白書=書体の一種、後漢の蔡邕が掃除後の帚目にヒントを得て作ったものと言われています。
漢から魏にかけては相当流行していました。「画中に白の部分がリズミカルに散在している書」で隷書体の範疇に入ります。
唐代の題額にいくつかの例はありますが現代ではすでに滅びた書体です。空海はこれを輸入して独自な形態まで発展させ空海体を創始しましたが一代で終わりました。

雅塾通信 第84号・・・月さすや 本を片手に床に就く(H26.9.1)

中国の書の歴史・・・その20
 唐の二代目太宗皇帝(597~649)は文墨を好み、特に王羲之の書を愛し、金にいとめをつけずに全国から収集しました。それらの鑑定をしたのが、欧陽詢(おおようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚遂良(ちょすいりょう)らです。太宗は集めた書跡の中から選書して搨本(とうほん=石搨にして写し取ったもの=拓本)をつくり、家臣に習わせたり、王羲之の字を集めて<聖教序>の碑を建てたりしました。
 皇帝のこの熱狂的な書道嗜好は前述の三大家を輩出し、書の隆盛期を形成しました。また、太宗は自らも健筆を揮い、王羲之風をベースにし、王者の風格もそなえた堂々たる雄壮な行草書を残しています。代表的作は<晋祠銘=しんしめい>と<温泉銘>です。
 「吾、古人の書を学ぶに、殊にその形勢を学ばず、ただその骨力を求む、而して形勢は自ずから生ず」これは太宗自身の言葉として残っています。

雅塾通信 第83号・・・名月に 俯瞰されるや地球星(H26.9.1)

中国の書の歴史・・・その19
 前回の故宮博物院の話から、宋代の書のことについてふれてしまいましたが、時代を戻して唐代の書について説明をします。
 約300年続いた唐代は外国との交流も盛んで特に西域の影響を深く受け書に限らず一台芸術の勃興した時代と言えるでしょう。
 むろん、唐代は書の発展でも目覚ましいものがありました。
 背景のひとつに書道の学校を設け書学博士を置き書道を教えたことがあります。そして官吏登用試験の科挙に書道を加えたのです。官吏として公文書を書くためには当然整った正しい楷書体を書くことが要求されました。形の整った端正な楷書碑が建立され今日に残っています。
 欧陽詢(557~641)の<九成宮醴泉名>、虞世南(558~638)の<孔子廟堂碑>、褚遂良(596~658)の<雁塔聖教序>などの後世不朽の名作と言われる楷書碑が誕生しました。
 これは隋の南北書派の融和が大きな原動力になっていると思います。盛唐期には顔真卿(709~758)が出て、力強い楷書も生まれました。
 その他、行書、草書の分野でも名品が生まれています。飛白書、則天文字、狂草なども目につきます。
 次回からはしばらく唐代の書を追いかけてみたいと思います。

雅塾通信 第82号・・・台風の 無事去り開く 音楽会(H26.8.1)

 東京国立博物館で開催中の台北故宮博物院展を見てきました。(平成26年7月)
 文物全部ひっくるめると200点以上の展示物があり、書関係でも30数点の名品が展示されていて、目標を定めて観覧しないと、「凄かったなー」だけで終わってしまいそうです。
 勿論、書を中心として拝観しました。印刷本でおなじみの王羲之「遠宦帖」や孫過庭「書譜」、趙孟頫の「赤壁賦」「閑居賦」の真跡は、何度か臨書したおかげで親しみやすく、癖のない王羲之流の書体がすっと体にしみこんできました。
 しかし、今回の展覧会の主体は北宋時代の書が中心でした。規律に則った唐代までの書から、個性を出してきた人たちの書、いわゆる宋の四大家、祭襄(1012~1067)、蘇軾(1036~1101)、黄庭堅(1045~1105)、米芾(1051~1107)とその周辺の人たちの作品が多数展示されていました。
 唐代までの書は、貴族文化、高級官僚の書風が中心でしたが、宋代に入り科挙試験(隋代から始まった高級官僚登用試験制度で日本でいう公務員試験のようなもの、だが門戸は極端にせまい)の制度が変わり、地方試験も加わったため多くの貴族以外の人が高級官僚になれました。それらの人を士大夫(したいふ)と言いますが、彼らは学問を通して身に着けた豊かな教養を基盤として社会を導き、書の世界でも新しい流れを生み出しました。
 そららの代表格が前述の4名です。彼らは唐代までの普遍的な書の基礎の上に「意」を注ぎ込みました。。それは形だけの美しさを求めるだけでなく、筆墨を媒体として、心境、いわゆる胸中の思いをも表出できるものに発展させたのです。いわゆる個性的な書の出現です。
 今回の観覧はそのあたりの変化と、四大家の「生」の作品を観て、個性的な書の表現とはどんなものなのか、不遜ながらどの作家の作品の個性が一番自分に気に入るか、そんなことを見極めようと思って行きました。
 
 さて、ここで一般論になってしまいますが、書の鑑賞は難しい・・・という話をよく耳にします。確かにそうです。
 結論を言ってしまえば書の鑑賞は、する人なりの見方しかできない、その人が蓄積してきたものの範囲内でしか見えないということになります。
 しかし、その範囲内でも鑑賞の仕方によってその範囲を広げていくことはできます。
具体的な鑑賞法を記してみますと、
 イ、まず会場に入ったらこの中で一番いいのはどれかを決めようという気持ちで会場を一巡する。
   漠然としていますが、例えば、自分でもらって帰るとしたらどれがいい、位の基準でいいでしょう。
 ロ、一枚選んだら離れてみて作品の構成や雰囲気を感じたり、この作品のどこがどういいのか、
   なぜいいと思ったか、また近づいてみて、いいと思ったところの線をじっくりと指でなぞったりして
   (ふれてはいけません)どう筆を動かしたのかなど、起筆、送筆、終筆をじっくり観て自分自身の
   結論を出します。
 ハ、また数メートル離れて今観察したことを反芻してみる。
 ニ、これを繰り返して、なぜ作者はこう書いたのだろうかと疑問がもてれば素晴らしい、そして自分なりの
   作品に対する意見を作ってみることが大切です。
 *展覧会に行くたびにこうした見方をしていれば「よかったねー」「凄かったねー」だけの感想で終わることなく鑑賞眼も高まっていくことと思います。

2016年3月12日土曜日

雅塾通信 第81号・・・田植え時や 夜明けとともに村動く(H26.7.1)

中国の書の歴史・・・その18
 南北朝を統一した隋の国は37年という短命でしたが書の世界についていえば、南方の書派が融合された時代と言えます。
 隋代の書は碑や墓誌、造像記、写経などが残されていますが、ほとんど楷書で書風も温雅整斉です。
 有名な碑では<龍蔵寺碑><啓法寺碑>、墓誌では<美人董氏墓誌><蘇孝慈墓誌>などがあります。法帖としては、智永の<真草千字文>が特に有名です。
<真草千字文>については紹介しておきます。
「梁(502~557)」の周興嗣(しゅうこうし、?~521)が武帝の命によって編集したものです。すべて四言句からなる韻文詩です。千字文の最初は、王羲之の筆跡を忠実に模写(双鉤填墨)した習字の手本でした。後世は、識字の教科書としても使われました。真とは楷書で、草とは草書の事です。
 王羲之の子孫である智永(7代目の孫と言われている)は弟子たちの習字の手本にとこの千字文を王羲之風の書で書きました。
 智永は長安の永欣寺の住職で永禅師と称され、終日書を臨すること30年、諸体をよくしましたが、特に草書が得意と言われています。<真草千字文>は実に800余体をつくり、全国の寺々に施入しています。
”退筆山の如し”であったので、埋めて筆塚を作ったといわれています。智永は筆塚の創始者でもありました。

雅塾通信 第80号・・・春の昼、軍港クルーズの客となる(H26.6.1)

中国の書の歴史・・・その17
 王羲之時代に続く(時代は一部重なるが)書と言えば南北朝の碑や摩崖、墓誌名に書かれた書体でしょう。この時代の書の流れは大きく二つに大別できます。
 一つは三国時代以降急速に普及してきた楷行草書、王羲之が確立した美しく雅な書体にさらに力強さを加えた北魏の書が加わってきたこと、二つ目は前代からの主流であった篆隷体は衰退し、辺境な地においてのみ残されてしまったことです。
 これは文字の普及とともに必然的な流れですが、戦乱に明け暮れた五胡十六国時代から写経が盛んになってきたことも大きく影響しています。写経は楷書が主流でした。
 南北朝時代に残された造像記や碑はおびただしい数です。
 造像記は仏教崇拝の年から作られたもので、石窟をほり、石仏をつくり、その仏像を刻した由来を記した文字を刻したものです。
 敦煌の千仏洞、山西省大同の雲崗(うんこう)石窟、洛陽の龍門石窟が中国の三大石窟です。
 代表的な造像記の文字としては牛橛(ぎゅうけつ)と始平公を、碑としては張猛龍碑(ちょうもうりょうひ)、鄭義下碑(ていぎかひ)をそれぞれ載せておきます。

2016年3月6日日曜日

雅塾通信 第79号・・・カルチャーに並ぶ白髪春二番(H26.5.1)

 今夏、台湾(台北)の故宮博物院の名品230点あまりが東京国立博物館で出品展示されます。
書は東博では31点あります。
 その中で個人的に特に見てみたいものは、孫過庭の「書譜」、趙孟頫(ちょうもうふ)の「赤壁賦」「閑居賦」、蘇軾「黄州寒食詩巻」、王羲之「遠宦帖(えんかんじょう)=手紙文」などです。
 ご存知と思いますが、故宮博物院は二つあります。一つは北京市天安門広場の北側に建つ紫禁城、もう一つは台北市郊外にある故宮博物院です。ちょっと歴史を紐解いてみます。

 紫禁城は15世紀のはじめに明の永楽帝が造営し、辛亥革命で清が滅びるまで、約490年にわたる二代王朝の居城でした。
 1924年11月、中国最後の皇帝・溥儀が紫禁城を去った翌年、名称を故宮博物院と改めています。
中国の歴代皇帝は、文物を収集することに熱心でした。
それは単に興味があったという以上にそれら歴史が生み出した文物を所有することで、自らが中華文明の正当な継承者であることを実感し証明したかったのでしょう。多くの民族が入れ替わり立ち代わり皇帝の座に就いた中国の歴史の中にあってはそれは権力の象徴として必要不可欠のものだったと思います。
 当時はおよそ200万点にのぼる文物が収蔵されていたといわれています。
 しかし、紫禁城の宝物は、清王朝に取って代わった国民党とあらたに興った毛沢東ひきいる中国共産党との戦いによって流転を余儀なくされました。
 第二次世界大戦後に熾烈化した国共内線のさなか、それらの宝物は重慶、昆明、南京などの都市を転々とし、ついに戦いの結果として蒋介石率いる国民党の手で台湾へ運ばれました。
 不幸な歴史によって、皇帝のコレクションは二つの都市に離れ離れになってしまったのです。
 現在、北京の故宮博物院には約百万点、台北の故宮博物院には約七十万点の文物が収蔵されています。
 呼吸は、二か所にわかれて存在することになりましたが、ほかの博物館には観られない独自性があります。故宮博物院が所蔵している文物はすべて自分たちの祖先が作り出し、伝えてきたいわば家宝のようなものです。文明八勝以来、子々孫々が守り通してきた自前の文化の結晶です。他国の文物を多く抱え目玉にしている有名博物館が多い中でこれは世界に類を見ない博物館として位置を保っています。

2016年2月21日日曜日

雅支部通信 第78号・・・寒暖の めまぐるしさや春半ば(H26.4.1)

中国の書の歴史・・・その16
 通信75号で蘭亭序の文章には即興の草稿であるため誤字めいたもの、異体字等々があると書きましたが「墨」誌、王羲之特集号の中に紹介されている源川源鋒二松学舎大教授の「蘭亭序の中の異体字」を参考に抜粋します。

 「禾偏に契」の字=禾偏の「契」の字はない。漢隷には示偏を禾偏に作った例はままある。王羲之はこれによった。
「契」=刀部分に点を加えているが点は不要である。これも漢隷に典拠している。
「峻領」=しゅんれい、「高い山」という意味なので、領には山冠が必要である。しかし漢隷の世界では「領」を「嶺」とみなしていた。今日、蘭亭序を創作で発表するなら領字は嶺字で書くべきである。
「攬」=この字は覧が正しい。避諱(ひき=死者の生前の本名を避ける)の風によって手偏の字に変えた「覧」字でないと「みる」とは読めない。

以上のように作品を作る際は誤字には十分注意を払わなければいけまあせんが、これがなかなか難しい。今使われている常用漢字は2,136字、歴代辞書に収められている字の数は、漢代の<説文解字>で約9,000字、南朝<玉篇>約20,000字、宋代<類篇>約31,000字、明代<字彙=字書>約33,000字、清朝<康熙字典>約46,000字、民国<中華大字典>約48,000字、中華人民共和国<漢語大字典>約54,000字、<中華字海>約85,000字とあります。

 漢字は知らない字が圧倒的に多いと思います。したがってひとつの作品を作る場合は丹念に字書を調べることが大事です。特に草書作品を書く場合は注意が必要です。
 北田岳洋先生が生前、「明代の草体は使わないように」と私たち初学者を今諫めた意味がこの頃ようやくわかってきたような気がします。

雅支部通信 第77号・・・熱き燗 はや後輩の古希の宴(H26.2.1)

昭和12年の漱雲誌二月号に掲載された北田岳洋先生(当時35歳)の巻頭言を紹介します。

 書学者の口から折々聞くことであるが、「吾輩は昨今ちっとも上達しない、いっそ手習いをやめようかと思う、どうしたものだろう」と。孔門の亜聖顔回と雖も「罷(や)めんと欲して能わず」と嘆息した位だから、折々は學を罷め様と思ったことはあるに違いない。況んや凡人がその上達の見えないためいっそうもう罷め様かと思うことくらいの事は当然である。
 凡ての如何なる芸術でも稽古のし初めには、なんだか一足飛びに上手くなったような気がするものでそれが段々稽古するにつれてどうもうまくならない、寧ろ下手になったような気がしてくる。誰でも同じくこの嫌気がでる時代に屹度遭遇する。これは進歩の一段階で簡単なすぐになり得るような芸術にはこういう段階は決してない。難しい芸術になればなるほどこの段階が多くなる。書道は東洋芸術の真髄で三千年からの歴史を持っている最も崇高なる芸術であるから、この段階は何度もやってくる。そのたびごとに棒を折ってしまったら到底上達は望まれない。この段階を上れば屹度その向こうには光明が輝いていることを忘れてはならない。書道の妙諦というものは三年や五年や十年で覚(さと)れるものではない。一生の研究も亦及ばないかもしれぬ。筆者にも勿論わかっていない、只必ず到達しうるものと信じて精進しているのみである。
 諸君も亦此の心がけで勉励されんことを望む次第である。

顔回・・・顔淵のこと、孔子の門人、優れた高弟だが若くして死に孔子を悲しませたという

2016年2月15日月曜日

雅支部通信 第76号・・・すす掃きや 柱に残る背くらべ(H26.1.1)

あけましておめでとうございます。
 ことしは十二支でいえば七番目、午(ゴ・うま)の年です。動物では馬が充てられています。十二支でいえば後午(コウゴ、きのえうま)の年です。
 馬はご存知のように人間の生活と昔から大きく拘わってきました。したがって、用語・故事・ことわざも多いようです。
 「当て馬」「生き馬」「絵馬」「竹馬の友」「馬脚」「馬齢」「馬力」「野次馬」「尻馬」「午睡」「初午」「午陰」など、更に故事・ことわざでは「馬の背を分ける」=夕立がここに降って、あそこには降らないこと。「馬によってみよ、人には添うてみよ」=良馬であるかどうか実際に乗ってみないとわからない、人も共に暮らしてみなければ人柄はわからない、実際に物事は経験してみないとわからないということ。
 最後に私が好きな故事を少し詳しく載せてこの項を終わります。
 「人間万事塞翁が馬」=淮南子(えなんじ・人間訓)にある故事に基づく、国境の塞近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の持ち馬が胡の国に逃げた。気の毒がる人に老人は「これが幸福のもととなる」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。これを福として、祝いを述べに来た人に老人は「これが不幸の基となる」と言った。老人の家には良馬が恵まれたが今度はその子が馬から落ちて足の骨を折ってしまった。これを見舞った人に老人は「これが幸福の基となる」といった。
 一年後胡軍が大挙して侵入し、若者の殆どが戦死した。しかし、足を骨折したためにその子は戦わずに済んだので親子ともども無事であったという。すなわち災いがいつ福の原因になるかかわらず、福がいつ災いの原因になるかわからない。人間なにが幸せで何が不幸かわからない、いたずらに一喜一憂しても始まらないことのたとえ。

 ○朝日新聞社が主催する第58回現代書道二十人展を6日、会員5名のみなさんとともに見てきました。私は4年ぶりの観覧です。この展は、昭和32年に第1回展を開いて58年目、当時の代表的展覧会というと日展と毎日展だけです。このふたつは公募展として戦後の書壇の復興に大きな役割を果たしてきましたが、現代書道二十人展はその時代を代表する書家を20人だけ選んで展示するという非常に難しい人選のなかで生まれた質の高い展覧会です。
 意外なことにこの展覧会開催の発端は上野松坂屋にあったということです。(田宮文平説)。松坂屋が新春に相応な催事をさがして書家の柳田泰雲に相談、協力は朝日新聞社にお願いしたいということで話は進んだようです。とは言っても種々ある流派の中から20人だけ選ぶというのは至難のことであったでしょう。書壇側からはどう厳選しても30人になるということで朝日新聞社に持ち掛けたが朝日側は譲らず、長老支配の印象を与えるので芸術院会員は外してほしい。日展中心ではなく在野をなるべく加えてほしい。との逆提案が示されてしまい多分相当苦しんでの20人展になったと思います。

2016年2月14日日曜日

雅支部通信 第75号・・・牡蠣(かき)剥ぎや するんとたぎる湯の中へ(H25.12.1)

中国の書の歴史・・・その15
 秦代の後半から漢代に書かれた木簡資料や帛書の文字資料をみると、古隷・八分・早書きの草書というものから、章草や草書とみられるもの、また行書らしい書体のものまであって混沌とした状態です。
 それが東晋の時代になるとはっきりした行書・草書・章草の区別がつくものが現れてきます。
 楷書らしい書体の確立は、五胡十六国時代の「老女人経(ろうにょにんきょう)=写経=後漢の書という説もあり」あたりからであるというのがひとつの説です。今後の発掘によって明らかになる部分があるにしても楷書は草書や行書よりも遅れて生まれてきたことには変わりないと思います。
 さて、だいぶ回り道をしましたが王羲之についてふれてみます。
 王羲之は琅琊(ろうや)の名族王氏の出身で字を逸少(いっしよう)といい、かつて右軍将軍という官についたことがあるので、世に王右軍(おおゆうぐん)と呼ばれています。
 生卒年月についてはいろいろ異説もありますが、西晋の永嘉元年(307)に生まれ、東晋の興寧3年(365)、59歳で没したというのがほぼ正確に近いものとされています。
 かれは45歳の時右軍将軍、会稽内史(かいけいないし)となり、任地に赴きました。
 この会稽というところは春秋時代の越(えつ)の古都で、今の浙江省紹興市にあたり、美しい山水の風景に恵まれた土地でもあります。彼はここに在任すること4年、そのうちの永和9年(353)の3月3日、この地において劇跡と称せられる「蘭亭序」を書いています。
 説によれば使用筆は鼠髭筆(そしゅひつ)、用紙は蚕繭紙を使用し、一気呵成に38行324字を行草書交じりで書いたとあります。
 即興の草稿であるため誤字めいたもの、脱字を後から加えたもの、書き換えた文字、異体字などがありますので蘭亭序を参考にして創作作品を創る場合は文字を書き換えるなどの注意は必要でしょう。

2016年2月13日土曜日

雅支部通信 第73号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.10.1)

中国の書の歴史・・・その12
 王羲之時代の到来(後漢末・三国から晋)
 後漢が倒れ、魏・呉・蜀の三国時代が始まりますが50年余りで時代は王羲之の生まれた晋に代わります。
 通信66号で東博で開催された「王羲之展」の内容を紹介しましたが、王羲之の書に影響をあたえた張芝、鐘繇について少し詳しく述べてみたいと思います。
 張芝は後漢の人(?~193年)後漢の名臣張奐の子で宮廷から高官に推挙されますが終生仕官せず、潔白の処士として一生を過ごし、草書の名手として知られ草聖と称されました。
 鐘繇は三国魏の人、魏の曹操(武帝)の信頼が厚く、文帝・明帝に仕えて建国の功臣として太傅(たいでん=官名=天子を補佐するいわゆるナンバー2)に進み、書は楷書の名手として知られています。この二人は王羲之以前の書道史を飾る能書家と言われています。
 唐の孫過庭は「書譜」の冒頭で「そもそも古来より書に巧みな者として漢魏の時代では鐘繇、張芝の絶佳があり、晋代の末では王羲之・王献之の巧妙さが伝えられた」と述べ、続いて王羲之の語った言葉が引用されていますので少し長いけれど紹介してみます。
「近頃いろいろな名書を尋ねましたが、鐘繇、張芝が並外れてすぐれており、それ以外は見るに足りません。私の書を鐘繇、張芝と比べると、鐘繇には肩を並べることができ、あるいは私のほうが勝っているかもしれません。張芝の草書にはやや遅れをとるでしょう。しかし張芝は学書に励み、(池に臨んで書を学んだため)池の水が墨のように真っ黒くなったほどです。もしも私が張芝のように励んだならばひけをとることはありますまい」と。
 ただ残念なことは、王羲之に大きな影響を与えた割にはこの二人はマイナーな存在です。それは二人の作品がきわめて少なく、しかもそのほとんどが疑わしいということが原因のようですが王羲之前史の中心を成した能書家として覚えておく必要はあるでしょう。

雅支部通信 第72号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.9.1)

中国の書の歴史・・・その11
 漢代のその他の書として瓦当(かとう)文、塼文(せんぶん)、画像石、官印・封泥などがあります。
 1.瓦当=屋根を葺くのに、平瓦をならべた接点には反面形の伏瓦をもってこれを覆います。
   これは軒先に出る部分が円形(ときには反面形)になっています。この部分を瓦当といいます。
   これは屋根をみるとすぐに目につく部分なので古くからいろいろな装飾が施されてきまし」た。
   瓦当はすでに三代(夏・殷・周)からあったものですが、文字の使用は漢代より始まっています。
   銘文は建物の性質がわかるようなものもありますが圧倒的に多いのは吉祥文字です。
   「長生未央=ちょうせいみおう」「長楽無極」「千秋万歳」「延年益寿」「與天無極=よてんむきょく」
   「永奉無彊=えいほうむきょう」「億年無彊」などがそれです。文字は篆書体を土台にした装飾文字
   です。
 2.塼=宮殿・家屋・墓・井戸・道路などの床に敷いたり壁面にはめこんだりして使われる煉瓦上のも 
   の。日乾煉瓦と陶製のものとがあります。銘文には吉祥文字・年号など、書体は篆・隷・草隷・章草
   などさまざまです。
 3.画像石=後漢時代になると立派な墳墓を造営するようになり大量の石材を用いた石造墓をつくるよ
   うになりました。画像石はこの石造墓内の石壁に絵画や図像を刻したものです。画像の脇に題名の
   文字が刻されています。

雅支部通信 第71号・・・強気もの 有(あ)らやクチナシ香放つ(H25.8.1)

中国の書の歴史・・・その10
 木簡における書体で楷書の項が残っていました。





左の図は1901年オーレル・スタインにより新疆省尼雅遺跡(しんきょうしょうにやいせき)から発見された木簡の風検です。
 この検は西川寧博士が楷書の成立期を示すものとして取り上げたものです。楷書の書法、横画「三過折」、縦画に「懸針法」が使われているとしています。資料としてはわずかでありますが、楷書の成立期を探る上で貴重とされています。これが書かれたのは269年ごろと言われています。
 しかし、鐘繇が書いたといわれる楷書の名品「薦季直表=せんきちょくひょう」は220年代と言われてますから楷書の成立期はまだまだ遡ることになるでしょう。

雅支部通信 第70号・・・健診を 終えていずるや あげ雲雀(H25.7.1)

 春の東京国立博物館「王羲之展」はまだ記憶に新しいところですが、来る7月13日(土)から9月8日(日)まで同じく東博にて特別展「和様の書」が開催されます。
 「和様」とは文字通り日本風を意味する言葉ですが、書のほか建築の様式などにも使われます。
 日本で漢字がみられる最古のものは金印「漢委奴国王(かんのなのぬこくおう)で、西暦57年ごろのものと言われています。日本で最古に書かれた漢字は熊本の江田古墳から出た太刀の銘文です。
 肉筆で残る最も古い字は聖徳太子が書いた「法華義疏(ほっけぎそ・ほっけぎしょともいう)」=法華経の注釈書です。
 さて、奈良時代になると唐との交流が盛んになり、書では光明皇后の「楽毅論」に代表されるように王羲之の系譜にたつものが主流でした。官立の写経所が設けられて、漢訳仏典の書写が盛んになりました。
 平安時代になると唐が滅亡し、遣唐使も中止になりましたが初期には三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の活躍で漢詩・漢文・漢字文化は中国風そのままでした。しかし男性中心であった平安時代も、陰で女性たちがから時代の万葉期に芽生えた万葉仮名から平安仮名へと新分野を作り出し、女性社会の中で文学や芸術を反映させてきました。
 「和様の書」は平安中期以降の中国書風と相対立する日本独自の書風全般をさして呼びます。
女性の弱い社会的地位は、男性社会の漢字・漢文を使わせてもらえず、文字通り「女手(おんなで)」「仮り名」とよばれるかな文字にすべてをかけて、ひそかに、しかし滔々と蕩蕩と平安かなの名作・高野切古今集、関戸本古今集・寸松庵色紙、継色紙などを生み、誰が書いたかわからないまま伝えられてきました。
 典雅なき気品と優麗なリズムを誇るこれら日本の名品は日本の書道史上でも最高の傑作と呼ばれてもよいでしょう。男が名を秘めてかな文字を書き始めたという時期もあったようです。
 鎌倉から室町時代は獰猛な武士集団がせめぎあう時代、公家に伝わる流儀書道(和様)は苦悶にあふれ生気を失いわずかに禅僧の道元、一休らがパンチのきいた書を残しています。
 江戸時代は内容より形式を重んじ、身分と地位を守る社会、幕府の締め付けも強く、文化や芸術の分野でも独創より伝承を重視した時代でした。書では幕府公認の御家流(和様書の一流派だが没個性書といわれる)でなくてはならず、新生面は開けませんでしたが地方ではやはり禅僧、越後の良寛・駿府の白隠・博多の仙崖などが個性的な美を開花させていました。
 総じて江戸時代は儒教的な教養に支えられた文人趣味流行の時代と言えるでしょう。大きな変化もなく明治になっていきました。

2016年2月11日木曜日

雅支部通信 第69号・・・刈草の 広く匂うや徳一廟(H25.6.1)

中国の書の歴史・・・その9
 今回は木簡に見られる各種の書体のうち行書、草書です。


①草書
 これは、1930年スウェン・ヘディンを中心とするスウェーデンと中国の合同探検隊の手によって、甘粛省北部より発見された有名な木簡です。
書写年代は、永元(93年)と簡に記されていることからして、当時の草書体を偲ぶには格好の資料です。木簡中の「今」「年」などに見られる大胆な縦画は長文の中にあって自然とアクセントを入れたりしてなかなか心憎いものがあります。



















②行書
 タクラマカン砂漠の東辺に位置した都市、楼蘭の遺跡で、ヘディンにより発見されたこの晋代の木簡の行書は、漢代の隷書を中心とした草、行書より更に洗練されています。このことは、流通書体として草、行書が頻繁に使用され、定着期に入ったことを示していると解釈できます。
 起筆に力を入れず、スッと引き、はっきりとした収筆を見せている点などは当時の流通書体を示す特徴と言えます。

雅支部通信 第68号・・・畦道を 振り向きもせず雉子の去る(H25.5.1)

中国の書の歴史・・・その8
 前号に引き続き木簡に見られる書体を見ていきます。今回は隷書で「古隷」と「今隷」の比較をしてみましたが、あまりこの両者には厳密な分類ができません。



①隷書
 前漢と後漢の間に位置した「新」の時代のものと推定されています。
 見事な八分隷で書かれており漢碑と違い肉筆の味が伝わってきて魅力ある資料です。
 1959年出土(甘粛省博物館蔵)


















②秦隷
 秦の紀元前217年ごろのものです。いわゆる篆書体を速書した通行体で波磔も発生しており、漢隷への発展過程が見られる書風です。
 1975年出土

雅支部通信 第67号・・・あさり蒸す めのこ手際のよき母に(H25.4.1)

中国の書の歴史・・・その8
 木・竹簡の中に楷書・行書・草書・隷書・篆書の書体があると前回書きましたが具体的に見ていきましょう。


①篆書
 1978年、湖北省より出土しました。この揚子江中流域は古の強国「楚」が君臨していたところであり領域内より出土する戦国時代の簡牘を通称「楚簡」と呼んでいます。



















②篆書
 これも戦国時代の楚国の竹簡で、1953年、筆とともに発見されました。この文字を見る限りにおいては鋳造された金文の書法とは趣を異にし、かなりリラックスした書き方を示し、隷書に近づこうとする姿勢を見せています。







雅支部通信 第66号・・・連載に 追いつかぬまま二月過ぐ(H25.3.1)

 3月3日まで国立博物館で開催されている書聖・王羲之展を見てきました。
この種の展覧会は、普段、印刷物や写真で見ているだけの法帖類や拓本などが、原拓、真跡で見られる貴重な機会です。肉筆作品や原拓本に数多く触れることで刺激を受け、見る目を肥やし意欲を湧かせてくれるチャンスでもありますのでなるべく見に行くようにしております。
 今回は、新発見された「大報帖」が展示されるという話題性もありましたが、王羲之の書が出来上がるまでの文字の変遷や真跡がすでに残されていない王羲之の書がどんな形で伝えられ、残されてきたかを「行穣帖」を手本にして「双鉤填墨」(そうこうてんぼく)という模写方式を中心にして語られ、王羲之の書ができあがるまでの時代を追っての書の変遷、筆聖と呼ばれるに至った経過、その後長きにわたって書の世界に与えた影響、宋・元・明時代の肉筆作新、更に清朝に入って碑学派の台頭でやや王羲之神話が崩れかかった時代の碑学派の作品。そして王羲之の書が再評価されてきたことまでが順を追って展示されており、清朝末期、最後の文人と言われた呉昌碩までの計163点の作品が時代を追って飾られてありました。
 では、王羲之は一体どんな書の勉強をしてきたのでしょうか。
今まで通信で再三紹介してきましたが現在確認されている最古の文字は甲骨文です。続いて金文。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が全国各地で用いられていた文字を統一して作り上げたのが小篆、しかしこれらの書体はあまりにも繁雑で書写には時間がかかる。そこで生まれてきたのが通行体として実用の書、すなわち隷書、草書、行書などです。楷書の後漢の晩期に隷書が次第に俗体化し転化する中で生まれ、魏晋に至って盛んになったもので、五書体中でもっとも遅い時期に発生しています。
 書体の変遷を長い目で見ると、一つの書体が成熟期を迎えると、それはまた別の簡略化の書体へと新たな展開を生じ、次の定型化へと進んでいますがこのようなプロセスを経ながらも、いつの時代にも必要に応じて公用体・準公用体・実用通行体が並行して用いられ、それぞれお用途に応じて使い分けられていたことがわかります。
 ここで登場するのが通行体の代表ともいうべき木簡・竹簡(簡牘という)です。
簡牘の中でも特に竹は記録を残すために甲骨文が生まれた殷代よりももっと前、いわるゆ符号を記した時代から使われていたことが明らかになっています。さらに簡牘の中には、篆書、隷書、草書、行書、楷書など全ての書体に進むべき要素を帯びた特徴をもったものがあります。そして八文隷書の公用体に相対して簡牘の文字は実用通行体としての用途に使われていました。
 話を元に戻しますが王羲之はこれら、この時代までのすべての書体を学んだと思われます。
 また、後漢の早聖と呼ばれた張芝(ちょうし)、後漢から魏に生きた楷書の名手として名高い鐘繇(しょうよう)を王羲之は尊敬し学んだことは書論としても有名な書譜に孫過庭が紹介しているところです。
 端正な王羲之の字を見ていると簡牘まで含めた学んだイメージが湧きずらいと思いますが、王羲之が25歳のころ書いたといわれる「姨母帖」にはその筆法が見て取れます。
 王羲之が木簡、残紙を学んだことを知ることは王羲之の線質を学ぶ上で重要なことです。