2016年2月13日土曜日

雅支部通信 第73号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.10.1)

中国の書の歴史・・・その12
 王羲之時代の到来(後漢末・三国から晋)
 後漢が倒れ、魏・呉・蜀の三国時代が始まりますが50年余りで時代は王羲之の生まれた晋に代わります。
 通信66号で東博で開催された「王羲之展」の内容を紹介しましたが、王羲之の書に影響をあたえた張芝、鐘繇について少し詳しく述べてみたいと思います。
 張芝は後漢の人(?~193年)後漢の名臣張奐の子で宮廷から高官に推挙されますが終生仕官せず、潔白の処士として一生を過ごし、草書の名手として知られ草聖と称されました。
 鐘繇は三国魏の人、魏の曹操(武帝)の信頼が厚く、文帝・明帝に仕えて建国の功臣として太傅(たいでん=官名=天子を補佐するいわゆるナンバー2)に進み、書は楷書の名手として知られています。この二人は王羲之以前の書道史を飾る能書家と言われています。
 唐の孫過庭は「書譜」の冒頭で「そもそも古来より書に巧みな者として漢魏の時代では鐘繇、張芝の絶佳があり、晋代の末では王羲之・王献之の巧妙さが伝えられた」と述べ、続いて王羲之の語った言葉が引用されていますので少し長いけれど紹介してみます。
「近頃いろいろな名書を尋ねましたが、鐘繇、張芝が並外れてすぐれており、それ以外は見るに足りません。私の書を鐘繇、張芝と比べると、鐘繇には肩を並べることができ、あるいは私のほうが勝っているかもしれません。張芝の草書にはやや遅れをとるでしょう。しかし張芝は学書に励み、(池に臨んで書を学んだため)池の水が墨のように真っ黒くなったほどです。もしも私が張芝のように励んだならばひけをとることはありますまい」と。
 ただ残念なことは、王羲之に大きな影響を与えた割にはこの二人はマイナーな存在です。それは二人の作品がきわめて少なく、しかもそのほとんどが疑わしいということが原因のようですが王羲之前史の中心を成した能書家として覚えておく必要はあるでしょう。

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