昭和12年の漱雲誌二月号に掲載された北田岳洋先生(当時35歳)の巻頭言を紹介します。
書学者の口から折々聞くことであるが、「吾輩は昨今ちっとも上達しない、いっそ手習いをやめようかと思う、どうしたものだろう」と。孔門の亜聖顔回と雖も「罷(や)めんと欲して能わず」と嘆息した位だから、折々は學を罷め様と思ったことはあるに違いない。況んや凡人がその上達の見えないためいっそうもう罷め様かと思うことくらいの事は当然である。
凡ての如何なる芸術でも稽古のし初めには、なんだか一足飛びに上手くなったような気がするものでそれが段々稽古するにつれてどうもうまくならない、寧ろ下手になったような気がしてくる。誰でも同じくこの嫌気がでる時代に屹度遭遇する。これは進歩の一段階で簡単なすぐになり得るような芸術にはこういう段階は決してない。難しい芸術になればなるほどこの段階が多くなる。書道は東洋芸術の真髄で三千年からの歴史を持っている最も崇高なる芸術であるから、この段階は何度もやってくる。そのたびごとに棒を折ってしまったら到底上達は望まれない。この段階を上れば屹度その向こうには光明が輝いていることを忘れてはならない。書道の妙諦というものは三年や五年や十年で覚(さと)れるものではない。一生の研究も亦及ばないかもしれぬ。筆者にも勿論わかっていない、只必ず到達しうるものと信じて精進しているのみである。
諸君も亦此の心がけで勉励されんことを望む次第である。
顔回・・・顔淵のこと、孔子の門人、優れた高弟だが若くして死に孔子を悲しませたという
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