2016年4月17日日曜日

雅塾通信 第99号・・・穏やかに 朝のスタート 麦青む(H28.3.1)

 1日24時間、睡眠に8時間使ったとして残り16時間が誰にでも与えられた時間です。仕事その他、社会とのかかわりの中で使う時間も当然自分の時間ですが純粋に自分の為に自由に使える時間と言ったらだいぶ少なくなってしまうでしょう。
 すでに十数年前にリタイヤした私は、24時間まるごと自分のもの、と思っていますがそうなるとまたなまけの心が頭を持ち上げてきます。1日1時間の運動をする時間さえ取れずに過ごしてしまいます。私のようなモグラ生活者には運動は必修科目です。わかっているのにやれないのは、実は本当にはわかっていないことなのでしょう。
 反省しきりの日々ですが自分のおかれた環境・立場の中で働き、努力・苦労を通して悦びを得ていく、これが実のある生き方ではないかと自分自身に問うています。

 塾通信95号で日本の書道がユネスコ無形文化遺産登録に向けて働きがけが進んでいると紹介しましたが、昨年11月に第4回の登録推進協議会会議が開かれ、申請名称が「日本の書道文化-なかでもかな書道を-」から「日本の書道文化-書初めを特筆して-」に変更になったと紹介されていました。(墨誌239号)。これは書初めという”社会的習慣”を前面にアピールするのが狙いだそうです。
 書初めといえば小中高生の正月の書初め大会を思い起こしますが、家庭でもそんな習慣が定着してくれれば秦に根付いた書道文化と言えるかもしれません。

 このところ新聞紙上で二度ほど目にしました記事ですが手書き文字の「こうあらねばならぬ!」が少し緩和されてきそうです。記事には、文化審議会漢字小委員会が手書き文字の「正解」を拡大し、「とめ」、「はね」などに細かい違いがあっても誤りではなくさまざまな字形が認められることを解説した指針案を国語分科会に報告した、とあります。
 今までも、細かい違いは許容されてはいましたが「小学校学習指導要領」の字体以外は間違い字と子供たちが認識してしまうのは歴史ある漢字の生い立ちから見ても寂しいことです。
 この取り組みは書に携わるものとして歓迎です。

雅塾通信 第98号・・・南天の大きくひしゃげて朝の雪(H28.2.1)

中国の書の歴史・・・その29
 今までに唐代の代表的書人9名とその作品を紹介してきましたが更に続けます。
 ★陸 柬之(りくかんし)=(唐・至徳3年~貞観3年 585~638)
  太宗から高宗にかけての人、高級役人、虞世南の甥っ子。子供のころは書を虞世南に学び長じて二王(王羲之、王献之)を学び行書を得意としました。晩年には二王に逼り書名が大いに上がって、ついに巷では、欧陽詢・褚遂良と並んだと評されました。その書には、
「五言蘭亭詩」=王羲之ら四十数人が山陰の蘭亭に会し享楽しながら作った詩を臨書したものです。
「文賦」=端正・秀麗な王羲之正統派の行書で、書名はありませんが陸柬之の書と見られています。
その他「近得帖」などが残っています。
 ★薛稷(せつしょく)=(649~713)
 名門の出であり秀才、進士に合格し文章家としても名を知られ、初唐の三大家にこの人を加え唐の四大家と呼ばれています。褚遂良の書風をさらに発展させ、たおやかで華やかなうつくしい書です。
「信行禅師碑=しんんぎょうぜんじひ」=706年の建碑、褚遂良を学んだことが伺える書風です。
「昇仙太子碑」=699年の刻、碑陽(碑の表)は則天武后の撰並びに書、碑陰を薛稷が書いています。

2016年4月16日土曜日

雅塾通信 第97号・・・餅を伸す 頑丈な腰 二児の母(H28.1.1)

気温15度と信じられないような暖かさで迎えた新年でした。今年は申年、動物では猿が充てられています。干支は丙申(へいしん、ひのえさる)です。
 猿は最も人間に近い動物ですが、「猿知恵」「猿真似」などあまりよい故事が浮かびません。せめて「猿も木から落ちるがまた登る」の根性で今年も頑張りましょう。今年もよろしくお願いいたします。

 暮れも押し詰まった23日、誘われて数人で多胡碑を見学に行きました。
 上野三碑がユネスコ世界記憶遺産の国内候補に選ばれたことや楫取素彦が多胡碑保存へ尽力したというテレビ番組の影響もあってか今多胡碑への関心が高まっています。
 「この字はうまいのかね~?」よく聞かれる質問です。確かに形も良くないようだし傾いたり歪んだり行も曲がったりで整然とした楷書と比較すると上手とは見えないかもしれません。
 この碑は711年の建立です。奈良時代が始まった翌年です。書いた人の名前は残っていませんが中国・朝鮮からの文字の影響が大きかったことは当然のことと思います。
 その頃中国はすでに唐代になり、100年近くたっていましたので、楷書はすでに完成していましたが、まだその書体が日本で普及するのには、さらに時間が必要だったと思います。
 多胡碑からさかのぼること200年、中国南北朝の北魏時代に鄭道昭(ていどうしょう)という人が書いた摩崖碑、「鄭文公碑=511年」、「瘞鶴銘(えいかくめい)=514年」の字体に多胡碑はよく似ています。多胡碑は南北朝時代の書体を相当学んだ人が書いた碑と思われます。
  多胡碑記念館にはこの2つの摩崖碑の拓本が整本・套本(せいほん・とうほん=採拓したままのもの、石碑の全体の概観がわかる)で展示されています。比較してみるとなるほどと思うところがあります。ほんとうによいものを理解するには時間がかかるものです。多胡碑の字もその領域かもしれません。
 多胡碑は1300年も前に建てられましたがかなり良好な状態を保っております。江戸時代中期からの保存状況は記録にありますがそれ以前ののことは確かなことはわかっていません。憶測ですが地域の人たちが大切に守っていたのかもしれません。
 この碑を世に知らしめたのは下仁田生まれの国学者・書家であった高橋道齋(1718~1794)です。当時江戸で一流の書家であった沢田東江を多胡碑に案内して採拓し同好の人々に送りその存在を広めました。その後拓本は、当時交流のあった朝鮮通信使によって朝鮮・中国にわたり、清朝末の文人趙子謙(1829~1884)も臨書をしています。また楊守敬(1839~1915)が編纂した楷書辞典「楷法溯源=かいほうそげん」には多胡碑の文字が39文字も採用されています。多胡碑の文面からもわかるように群馬の古代はいろんな意味で面白いかもしれません。

雅塾通信 第96号・・・山道の 踏まれるままの落ち葉かな(H27.12.1)

”まだまだ”が”もう”に代わって早師走、今年こそ早めに事を片付けよう!・・・毎年そう思っていて終わらないだから今年もダメでしょう。しかたないからぎりぎりまで頑張ってゆったりとした信念を迎えよう。と開き直っています。

 先月末、県展開催中の県立近代美術館で、西安交通大学博物館長の鐘明善(しょうめいぜん)先生が「中国書法の現在と未来について」と題して講演会を開きました。
 先生の名前はかねてから伺っていましたし講演内容も興味があったので聞きに行ってきました。
通訳付きでしたので一時間半以上の講演でしたが中身は一時間弱くらいだったでしょうか、解りやすいお話でした。要約すると・・・中国も文革後「改革開放」政策をとって外国からの文化、思想も急速に入り込み、書の世界もその影響を受けて良い面、悪い面が出た。
 評価すべき面は、中国書法(中国では書道の事を書法という)に新しい考え方をもたらしたこと、例えば紙面構成の概念と、作者の感情をどのように書作品として表現し伝えるかなど。マイナス面は、機械的に国外の傾向に影響され、漢字本来の形を崩したり、漢字の書き方から離れたりして、中国の書法の正常な発展を阻害したこと。この影響で1980年代の全国書法展には「美しくない字」が展示され賞を受けることもあり試練に立たされた時代であった。
 それでも、このような単純に視覚的な衝撃のみを強調した創作方法の影響は短期間で終わり、2000年以降は伝統の軌道に戻り、外国の形式を選択的に取り入れ、「伝統を受け継ぐことを前提にした各自の個性を模索」するようになってきた。
 2012年から書法教育を正式に小・中学校に取り入れ芸術の社会化をめざし、安定した発展の道を歩み始めている。
 そして結びには日中両国の書法家がともに努力し、学びあい、書法芸術を発展させ、さらに世界に誇れるものにしていけるように頑張りましょう、と呼びかけました。

11月22日には本庄第一高校書道部の展覧会「桐華展」を見てきました。顧問の高橋維周先生が藤岡書道協会の会員なので今までも何度か鑑賞しています。会場は本庄市文化会館です。
 埼玉県展に入選した臨書作品をはじめ好きな言葉を自由に書かせた(と思われる)作品、それに篆刻など合わせて76点、先生が2点、そのほか二階の第2会場には台湾との交流展として50点あまりまさに所せましと展示してありました。
 そのほか「書道パフォーマンス」、屋外の特設会場で18名ほどの女生徒が羽織袴姿で音楽に合わせて踊ったり跳ねたり、おなじみ超特大筆をふるっての揮毫は躍動感があって生徒も楽しそうでした。
 できあがった作品はけっこう様になっていました。体力も必要だし、使用したあの筆を洗うのはそぞかし大変だろうなと思った次第です。

雅塾通信 第95号・・・澄み渡る天空に鳴る秋風鈴(H27.11.1)

 気温20度、湿度30パーセント、これが生活するのに一番快適な陽気だそうですが晴れた日の今がまさにそうです。
 しかし、毎朝目を通す新聞には今日も(10月31日付 上毛三面)これでもかというような信じられない記事がいっぱい載っています。
「マンション傾斜、旭化成改ざん数十件か・公表中止また混乱」「東洋ゴムに新たに2880個改ざん・社内で不正繰り返す=記録を取り始めてから計46,646個の不正防振ゴム」「検定中の教科書見せる・三省堂、社長ら集め謝礼」「警察官ら70人書類送検・虚偽の交通違反報告書作成の疑い」「大和ハウス、防火扉1204棟で不備」などの記事が紙面の三分の二以上占めています。
 驚くべきことは、この不祥事が今まで信用がおけると思っていた一流の企業や組織ばかりだからです。何を信じていいのか、社会の人心に与える影響は計り知れないものがあります。何が原因なのか、思いめぐらす必要があるでしょう。

 うれしいニュースをひとつ、このところ日本の伝統文化、和食・和紙が二年連続でユネスコ無形文化遺産に登録されています。現在すでに日本では22件(世界では314件)の文化遺産が登録されているそうですが、書道界でもその動きがはじまっています。
 今年の4月に「日本書道ユネスコ登録推進協議会」が発足し、会長に荒船清彦(公益財団法人・全国書美術振興会会長)が就任し広範な書道関係者の協賛を得て具体的な活動が始まっています。
 スローガンやロゴマーク、ポスターなどいずれ完成するでしょう。
 申請名称は「日本の書道文化-中でもかな書道を-」が案として挙がっていますが、これは国際社会に日本の独創性=かな文字をアピールするための名称であり、もちろん日本の書道文化全体を登録の対象として運動は進めていくことに変わりはありません。今後の推移が楽しみです。

雅塾通信 第94号・・・爽やかな 風がつぎつぎと頬を過ぎ(H27.10.1)

 9月1日、知人の個展を二つ見てきました。
一つは篆刻家の計良袖石先生です。5年に一回、6~7回目の個展と思います。東京駅地下街のギャラリー八重洲で開かれていました。
 刻字と篆刻が中心で「書はありません」と先生は仰っていましたが作品の脇にある自筆の解説文と刻字や篆刻作品を見ていれば書作品があるのと同じこと、とお見受けしました。
 先生の魅力は理論と実践の統一感です。そこに自分の立ち位置を置いて微動だにしません。
「王羲之書法の普遍性はその筆法にあります」と分析しております。

 もう一つは来年25周年記念、馬景泉(まけいせん)先生の個展です。
虎ノ門にある”東京中国文化センター”で開催されていました。かれも篆刻家です。
 馬先生はバブル期であった1990年に中国残留孤児の家族の一員として来日し、上野の美術館の前、いわゆる露店で印刀一本で生活を支え、そこをスタートして10数年で江戸川区に家を買った程の努力家、芸術家、実力者であります。
 「石刻は一生我と共にある」という一節を刻し、芸術に終わりなしとの言葉を自分に課し、胸の内には「中国の篆刻芸術」を通じて「日中友好の使者」としての役割を果たしたいと語っていました。
 最近では藤岡瓦の土を使った印、瓦当、碑(せん=粘土を焼き固めて作った建築材料、この場合文字を刻み込んだ装飾風のものをいう、大小有)を盛んに創作しています。この材料を使って壁、床などの随所にはめこんだ建物を作ったならば独特な雰囲気の建物になるだろうと想像が膨らみます。広い会場でしたがそれらの作品も多数陳列されていました。
 篆刻の実演も見せてくれましたが、運刀を見、呼吸を感じているうちになるほどと気の付くものがあり、実際に帰宅してからすぐにまねをして彫ってみました。これはうれしい収穫でした。
 1日で二つの個展、忙しくはありましたが、独自の世界を持っているお二人の姿を拝見して心満たされた気分で帰ってきました。

雅塾通信 第93号・・・花瓶からねむそな顔の雨蛙(H27.7.1)

墨盒(ぼくこう)=墨壺である。矢立の墨壺を大きくしたようなものであるが、日本にはなく、中国の清朝末期に盛行する。表面は真鍮で内側は銅である。大は15センチ四方から小は5センチ四方の四角壺である。
 使い残した墨液をこの中に移して貯えて置くと墨液が腐敗しない。上部には種々の文字、絵などを刻していて雅趣がある。蘭亭序、赤壁賦、朱子家訓などのような名文、青銅器銘文、瓦当文などを刻したりしている。円形のものもある。(宇野雪村著・文房古玩辞典)