気温15度と信じられないような暖かさで迎えた新年でした。今年は申年、動物では猿が充てられています。干支は丙申(へいしん、ひのえさる)です。
猿は最も人間に近い動物ですが、「猿知恵」「猿真似」などあまりよい故事が浮かびません。せめて「猿も木から落ちるがまた登る」の根性で今年も頑張りましょう。今年もよろしくお願いいたします。
暮れも押し詰まった23日、誘われて数人で多胡碑を見学に行きました。
上野三碑がユネスコ世界記憶遺産の国内候補に選ばれたことや楫取素彦が多胡碑保存へ尽力したというテレビ番組の影響もあってか今多胡碑への関心が高まっています。
「この字はうまいのかね~?」よく聞かれる質問です。確かに形も良くないようだし傾いたり歪んだり行も曲がったりで整然とした楷書と比較すると上手とは見えないかもしれません。
この碑は711年の建立です。奈良時代が始まった翌年です。書いた人の名前は残っていませんが中国・朝鮮からの文字の影響が大きかったことは当然のことと思います。
その頃中国はすでに唐代になり、100年近くたっていましたので、楷書はすでに完成していましたが、まだその書体が日本で普及するのには、さらに時間が必要だったと思います。
多胡碑からさかのぼること200年、中国南北朝の北魏時代に鄭道昭(ていどうしょう)という人が書いた摩崖碑、「鄭文公碑=511年」、「瘞鶴銘(えいかくめい)=514年」の字体に多胡碑はよく似ています。多胡碑は南北朝時代の書体を相当学んだ人が書いた碑と思われます。
多胡碑記念館にはこの2つの摩崖碑の拓本が整本・套本(せいほん・とうほん=採拓したままのもの、石碑の全体の概観がわかる)で展示されています。比較してみるとなるほどと思うところがあります。ほんとうによいものを理解するには時間がかかるものです。多胡碑の字もその領域かもしれません。
多胡碑は1300年も前に建てられましたがかなり良好な状態を保っております。江戸時代中期からの保存状況は記録にありますがそれ以前ののことは確かなことはわかっていません。憶測ですが地域の人たちが大切に守っていたのかもしれません。
この碑を世に知らしめたのは下仁田生まれの国学者・書家であった高橋道齋(1718~1794)です。当時江戸で一流の書家であった沢田東江を多胡碑に案内して採拓し同好の人々に送りその存在を広めました。その後拓本は、当時交流のあった朝鮮通信使によって朝鮮・中国にわたり、清朝末の文人趙子謙(1829~1884)も臨書をしています。また楊守敬(1839~1915)が編纂した楷書辞典「楷法溯源=かいほうそげん」には多胡碑の文字が39文字も採用されています。多胡碑の文面からもわかるように群馬の古代はいろんな意味で面白いかもしれません。
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