2016年2月11日木曜日

雅支部通信 第66号・・・連載に 追いつかぬまま二月過ぐ(H25.3.1)

 3月3日まで国立博物館で開催されている書聖・王羲之展を見てきました。
この種の展覧会は、普段、印刷物や写真で見ているだけの法帖類や拓本などが、原拓、真跡で見られる貴重な機会です。肉筆作品や原拓本に数多く触れることで刺激を受け、見る目を肥やし意欲を湧かせてくれるチャンスでもありますのでなるべく見に行くようにしております。
 今回は、新発見された「大報帖」が展示されるという話題性もありましたが、王羲之の書が出来上がるまでの文字の変遷や真跡がすでに残されていない王羲之の書がどんな形で伝えられ、残されてきたかを「行穣帖」を手本にして「双鉤填墨」(そうこうてんぼく)という模写方式を中心にして語られ、王羲之の書ができあがるまでの時代を追っての書の変遷、筆聖と呼ばれるに至った経過、その後長きにわたって書の世界に与えた影響、宋・元・明時代の肉筆作新、更に清朝に入って碑学派の台頭でやや王羲之神話が崩れかかった時代の碑学派の作品。そして王羲之の書が再評価されてきたことまでが順を追って展示されており、清朝末期、最後の文人と言われた呉昌碩までの計163点の作品が時代を追って飾られてありました。
 では、王羲之は一体どんな書の勉強をしてきたのでしょうか。
今まで通信で再三紹介してきましたが現在確認されている最古の文字は甲骨文です。続いて金文。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が全国各地で用いられていた文字を統一して作り上げたのが小篆、しかしこれらの書体はあまりにも繁雑で書写には時間がかかる。そこで生まれてきたのが通行体として実用の書、すなわち隷書、草書、行書などです。楷書の後漢の晩期に隷書が次第に俗体化し転化する中で生まれ、魏晋に至って盛んになったもので、五書体中でもっとも遅い時期に発生しています。
 書体の変遷を長い目で見ると、一つの書体が成熟期を迎えると、それはまた別の簡略化の書体へと新たな展開を生じ、次の定型化へと進んでいますがこのようなプロセスを経ながらも、いつの時代にも必要に応じて公用体・準公用体・実用通行体が並行して用いられ、それぞれお用途に応じて使い分けられていたことがわかります。
 ここで登場するのが通行体の代表ともいうべき木簡・竹簡(簡牘という)です。
簡牘の中でも特に竹は記録を残すために甲骨文が生まれた殷代よりももっと前、いわるゆ符号を記した時代から使われていたことが明らかになっています。さらに簡牘の中には、篆書、隷書、草書、行書、楷書など全ての書体に進むべき要素を帯びた特徴をもったものがあります。そして八文隷書の公用体に相対して簡牘の文字は実用通行体としての用途に使われていました。
 話を元に戻しますが王羲之はこれら、この時代までのすべての書体を学んだと思われます。
 また、後漢の早聖と呼ばれた張芝(ちょうし)、後漢から魏に生きた楷書の名手として名高い鐘繇(しょうよう)を王羲之は尊敬し学んだことは書論としても有名な書譜に孫過庭が紹介しているところです。
 端正な王羲之の字を見ていると簡牘まで含めた学んだイメージが湧きずらいと思いますが、王羲之が25歳のころ書いたといわれる「姨母帖」にはその筆法が見て取れます。
 王羲之が木簡、残紙を学んだことを知ることは王羲之の線質を学ぶ上で重要なことです。

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