このところ急速に秋の気配になりました。生活しやすい季節ですが風邪をひかないように注意が必要です。あわてて下着を替えました。お互いに気を付けましょう。
歳を取ると短期になる人が多いと言われます。私も高齢ですが幸い私の周りには穏やかな人が多いので日常の生活の中では余り腹の立つことはありません。テレビには怒鳴るときがありますが。。
ところが先日、ある公的機関の窓口で二三のやりとりをした後で「身分を証明できる免許証とかがあったらみせていただいてよろしいでしょうか」といわれ、そのイントネーションに思わず「いやだといったら」と口に出してしまいました。「決まっていることですから・・・」「選択肢がないのならよろしいでしょうかではないでしょう」と言ってから余分なことを言っちゃったなと思いました。
このところ「・・・・でよろしいでしょうか」ともったいぶった言葉で語りかける場面が気になっていたからかもしれません。
客観的にみればそのときの私は「短気な高齢者」になっていたのでしょうか。
客観的にと言えば白紙の領収書用紙をもらって自分で記入するなどと言うことがまかり通っている世界がありました。
パーティ券の領収書らしいが一般社会では考えられないこと、まして税金を使って仕事を人たちは一層の正確さが必要と思うのだが・・・「受付が混んでいるから用紙だけもらったのでなんら法的に違反ではない」と国会で答弁したのにはさらに驚きでした。
恒常化していたようですが、自分たちを客観的にみられない典型的な姿だと思います。自分は「えらい」と錯覚すると客観的に自分が見えなくなる、とはよく言われること、これを地位と人格が一致していないということなのでしょう。そういえば支持者に囲まれた政治家が失言(本音?)するのもその最たる例です。そのくせ言い訳だけはうまくなる。自分を正当化しようとの魂胆だから端から見ると見苦しい。さてこれをいざ自分に置き換えて、改めて自分のことは自分ではよくわからないと肝に銘じ、言い訳がましいことを言っていないか、を時々振り返ろうと思っています。
私が所属している中国書画篆刻研究会(今成清泉先生主宰)の第六回竹清書展が先月開催されました。出展作品の中には「蘭亭序」の臨書が二点ありました。その二点の書風が違うので見学者の中から疑問が出されていました。原本が異なっていたためです。どの原本を臨書したかによって書風が変わります。蘭亭序はご存知のように王羲之が書いたものです。ただし残念ながら直筆はありません。今あるのは臨書や写したものばかりです。その数は多すぎて解りません。その中の良いものが残って手本として出回っているのです。
よく目にするのが次の四本です。いずれも唐の三大家が書いたと言われています。
(1)蘭亭八柱第一本・・・これは虞世南臨本で別名張金界奴本と呼ばれています。
(2)蘭亭八柱第二本・・・褚遂良の臨書したものといわれています。
(3)蘭亭八柱第三本・・・馮承素がうつしたもので別名神龍半印本と呼ばれています。もとは褚遂良の臨書したものといわれています。
(4)定武本蘭亭序・・・欧陽訽の臨書したものを石に刻したものといわれています。
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