2016年3月13日日曜日

雅塾通信 第88号・・・書初めを 選ばれましたと 明るい目(H27.2.1)

中国の書の歴史・・・その24
 虞世南(ぐせいなん)=欧陽詢(おおようじゅん)より一年後にうまれた虞世南(558~638)は小さい頃より学問を志し、博学・多識として聞こえていました。特に優れていた書法においては欧陽詢と同じく、太宗皇帝に重く用いられました。
 書は智永、王羲之に学び晩年の楷書は沈着にして清らか、風流な趣がただよっているといわれています。
代表作は孔子廟堂碑(629年ごろ)です。
 これは虞世南が太宗の命により孔子廟の再建を成したことや、太宗の文教復興を記念して建てられた碑です。勅命により、虞世南撰文、ならびに書で、虞世南唯一の石刻碑でしたが早くに(唐・貞観年間)火に燬(や)けて(異説あり)原石はありません。しかし原石唐拓と称されている拓本(孤本という)が一本残されています。今は三井氏聴氷閣(みついしていひょうかく)に稀代の墨宝として保存されています。書風は格調高く、穏やかで温かみの感じられる名品です。

 初唐の三大家のもう一人は褚遂良(ちょすいりょう596~658)です。彼は虞世南より38歳、欧陽詢より39歳年少です。彼の父・亮(りょう)が前記二人と弘文館学士の同僚で親しかったため、いわゆる親の七光りもあったか、遂良は太宗・高宗の二代に仕えました。
 書人としての褚遂良は、はじめは虞世南に学び、王羲之も研究したと言われています。その才能は欧陽詢も高く評価していました。
 貞観12年(638)に虞世南、その3年後に欧陽詢がなくなり、当時、国家的事業のひとつとして王羲之の真跡を二人の協力の下、収集、鑑定して宝蔵していた太宗皇帝は、大いに困惑したようですがそれを助けたのが褚遂良でした。彼の書として有名なのは「雁塔聖教序」「枯樹賦」「孟法師碑」「房玄齢碑(ぼうげんれいひ)」などです。

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