2016年3月13日日曜日

雅塾通信 第89号・・・埋め立てる休耕田や春寒し(H27.3.1)

中国の書の歴史・・・その25
 則天武后(623~705)=姓は武氏、名は照、太宗の才人=女官(後宮との説もあり)。太宗崩御のあと一時尼となったが高宗に望まれて後宮(こうきゅう)に入り、高宗の寵愛を受けて皇后となる。
 高宗崩御後、武氏一族を登用して周国(690)を名乗り自ら帝となった。ここで唐王朝は一時中断する。則天武后は制度改革などに専横を極めずいぶんと乱暴な政治を行った。残忍にして殺戮を好む。しかし武后は文章詩賦をよくし、書法に長じた。代表作「昇仙太子碑」がある。
 また則天文字19字を制定したり、「万歳通天進帖(ばんざいつうてんしんじょう」=王羲之および王家一族の書跡を集めた帖」を作ったことは注目されるところです。

孫過庭(648?~?)=名は過庭、字は虔礼(けんれい)。またその逆という説もある。かれの生没年は明らかにされていないが、唐の太宗の晩年、貞観20年(646)前後から則天武后の初年(690)ころの人であるらしい。
 若いときから忠実な人柄であったが、不運・不遇で40歳ごろになってようやく仕官したものの、讒言(ざんげん)によって辞めさせられている。有名な草書書論「書譜」はその後書かれたものと言う。(参考資料、書の基本資料・中国書道辞典)

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