先月、部外者ではありますが誘われて歴史散歩の会の皆さんと水戸散策へ行ってきました。
江戸末期幕府崩壊の落日を感じながら尊王攘夷に生きた九代藩主徳川斉昭の業績などボランティアの解説を聞きながら見学しました。
斉昭は「烈公」と呼ばれただけあって激しい時代背景の中、現代の水戸市の繁栄の基礎を精力的にいづいた人のように思えます。学問の府である「弘道館」を立てて文武の修業の場とし、「偕楽園」とその敷地内に建てた、わび、さびの館「好文亭」で緊張緩和・いわるゆ遊ぶ、という硬軟両政策を実施しました。また、兵糧と飢餓の祭の食料として役立てる目的で梅の栽培を命じています。
斉昭の政策には水戸学と言われる儒教思想や尊皇の国家意識と共に陰陽哲学を多分に取り入れた考えが根底にあるように感じました。
随所に斉昭の気力の充満した力強い書や碑が直筆で残されています。楷書・行書・草書・隷書・篆書・かな、すべての書体に通じていて驚きです。
斉昭は「桜田門外の変」が起きた1860年に60歳で亡くなっていますが、水戸といえば「偕楽園」というほど有名になった日本の三名園を中心に、日本中から観光客が訪れる名所のなっています。
もっともっと深く知りたい街でした。
崖急に 梅ことごとく斜めなり・・・子規
中国の書の歴史・・・その22
欧陽詢=初唐の三大家の一人で欧陽は複姓です。字(あざな)は信本(しんぽん)。湖南省長沙の人で 陳・隋と経て、唐の初代高祖に仕えています。二代目太宗が即位(626年)したときはすでに70歳になっていて楷書の極則と呼ばれる九成宮醴泉銘(632)は76歳の時の書となります。
書風は北派流といわれることが多いが、神田喜一郎氏は「書道研究」誌で「王羲之・王献之を学び、南北数家の法を混一して別に一家を成した」「虞世南が専ら二王の書を主とし、南派の書を良くしたのとは対照的立場にあったものというべきである」と述べています。
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