2016年3月20日日曜日

雅塾通信 第92号・・・山降りて 目にはやさしき青葉かな(H27.6.1)

中国の書の歴史・・・その28
 顔真卿(がんしんけい)=初唐から中唐にかけて、書法を遵守し、それにさばられたやや窮屈な書も時代を経るにしたがって徐々に変化をし、革新的気風が生まれてきました。それを大いに助長したのが顔真卿です。しかし彼が伝統を基盤とする正当な書法を無視したかと言えば決してそうではありません。書法伝授の系譜(古今伝授筆法)によれば、鐘繇-衛夫人-王羲之-王献之-智永-虞世南-欧陽詢-張旭-李陽冰(りようひょう)‐徐浩-顔真卿・・・と系統は続いています。
 初唐の人々が貴族的な調和と均整を求めて、人間のよそいきの一面だけを出していたのとは対照的に、顔真卿という人は、当然濁りも併せ持っている人間のありのままの部分を表出しても動じない人物だったようです。
 見栄も功利もなく、あるがままの自己をさらけ出すという真の人間性の躍動の書を創造したと言えるでしょう。伝統的な書則や書法の上に、積極的な自己解放への道をひらいたことは、中国書道のコペルニクス的大転換と言えるかもしれません。(中教出版・書の基本資料参照)

雅塾通信 第91号・・・新入生 机見てねと駆け上がり(H27.5.1)

中国の書の歴史・・・その27
 唐代が始まって約100年、開元(713年)から天宝年間(742~755年)はいわゆる盛唐の時代です。皇帝は玄宗です。王羲之崇拝から始まった唐代の書も、海外からの絵画、音楽、芸能、詩など多様な文化の交流により変化をもたらしてきました。王羲之の書も崇拝はされていましたが形だけをまねるだけの精彩さを欠いたものになっていきました。この書は「院体」の書とよばれさげすまれたものもあります。
 そんな中でも私たちになじみのある人は李邕(りよう678~747)です。
 幼いころから秀才として知られ、玄宗皇帝の時、北海太守となったことから李北海(りほっかい)とも称されております。
代表作は「麓山寺碑」「李思訓碑」があります。

2016年3月14日月曜日

雅塾通信 第90号・・・春暁や 冬の名残の庭を掃く(H27.4.1)

中国の書の歴史・・・その26
 書譜=唐代に書かれた孫過庭の書譜、書をする者はだれもが一度は学ばなければならない古典の一つです。現代ではあまり実用性のない草書作品ですが癖のない書体とその書かれている書論は、書いても読んでも興味の尽きるところはありません。
 一般的に書を学ぶには楷書から入ります。続いて行書、草書と段階を踏むわけですが正しい楷書による字の構成を身につけておけば、行書、草書に進んでも基本的な形は崩れることはありません。
 書は線質が命ですがそれを生み出すのは運筆の速さの変化です。楷書、行書にも送筆の遅速はありますが草書にはさらにそれが必要です。
 書譜の現代語訳(松村茂樹訳)のなかにこんな一文が載っています。
 筆をためながらゆっくり書くということがわかっていない者が、ひとえに強く素早く書こうとしたり、迅速に筆を運べない者が、かえっておそく重苦しい運筆をしたりすることがある。
 そもそも強くすばやく書くなどということは世俗を超越した機転によるものであり、遅くとどまるように書くというのは鑑賞の情趣のためである。速筆を会得した人が反対にゆっくり書こうとするならば、ゆくゆくは美を醸し出せるようになるであろうが、もっぱら遅筆におぼれていては、人並みに外れて優れることはできなくなってしまうであろう。
 速筆ができた上ではやく書かないのは、いわゆる筆をためながらゆっくり書くというすぐれた技法であるが、遅筆しかできないために遅く書かれたものなど、どうして鑑賞に値しようか。
「心は閑にして手は敏(すばやい)」という境地に至らなければ、速筆と遅筆に兼ね通じることは難しいであろう。以上
春はのびのび、草書を学ぶにはよい季節です。

2016年3月13日日曜日

雅塾通信 第89号・・・埋め立てる休耕田や春寒し(H27.3.1)

中国の書の歴史・・・その25
 則天武后(623~705)=姓は武氏、名は照、太宗の才人=女官(後宮との説もあり)。太宗崩御のあと一時尼となったが高宗に望まれて後宮(こうきゅう)に入り、高宗の寵愛を受けて皇后となる。
 高宗崩御後、武氏一族を登用して周国(690)を名乗り自ら帝となった。ここで唐王朝は一時中断する。則天武后は制度改革などに専横を極めずいぶんと乱暴な政治を行った。残忍にして殺戮を好む。しかし武后は文章詩賦をよくし、書法に長じた。代表作「昇仙太子碑」がある。
 また則天文字19字を制定したり、「万歳通天進帖(ばんざいつうてんしんじょう」=王羲之および王家一族の書跡を集めた帖」を作ったことは注目されるところです。

孫過庭(648?~?)=名は過庭、字は虔礼(けんれい)。またその逆という説もある。かれの生没年は明らかにされていないが、唐の太宗の晩年、貞観20年(646)前後から則天武后の初年(690)ころの人であるらしい。
 若いときから忠実な人柄であったが、不運・不遇で40歳ごろになってようやく仕官したものの、讒言(ざんげん)によって辞めさせられている。有名な草書書論「書譜」はその後書かれたものと言う。(参考資料、書の基本資料・中国書道辞典)

雅塾通信 第88号・・・書初めを 選ばれましたと 明るい目(H27.2.1)

中国の書の歴史・・・その24
 虞世南(ぐせいなん)=欧陽詢(おおようじゅん)より一年後にうまれた虞世南(558~638)は小さい頃より学問を志し、博学・多識として聞こえていました。特に優れていた書法においては欧陽詢と同じく、太宗皇帝に重く用いられました。
 書は智永、王羲之に学び晩年の楷書は沈着にして清らか、風流な趣がただよっているといわれています。
代表作は孔子廟堂碑(629年ごろ)です。
 これは虞世南が太宗の命により孔子廟の再建を成したことや、太宗の文教復興を記念して建てられた碑です。勅命により、虞世南撰文、ならびに書で、虞世南唯一の石刻碑でしたが早くに(唐・貞観年間)火に燬(や)けて(異説あり)原石はありません。しかし原石唐拓と称されている拓本(孤本という)が一本残されています。今は三井氏聴氷閣(みついしていひょうかく)に稀代の墨宝として保存されています。書風は格調高く、穏やかで温かみの感じられる名品です。

 初唐の三大家のもう一人は褚遂良(ちょすいりょう596~658)です。彼は虞世南より38歳、欧陽詢より39歳年少です。彼の父・亮(りょう)が前記二人と弘文館学士の同僚で親しかったため、いわゆる親の七光りもあったか、遂良は太宗・高宗の二代に仕えました。
 書人としての褚遂良は、はじめは虞世南に学び、王羲之も研究したと言われています。その才能は欧陽詢も高く評価していました。
 貞観12年(638)に虞世南、その3年後に欧陽詢がなくなり、当時、国家的事業のひとつとして王羲之の真跡を二人の協力の下、収集、鑑定して宝蔵していた太宗皇帝は、大いに困惑したようですがそれを助けたのが褚遂良でした。彼の書として有名なのは「雁塔聖教序」「枯樹賦」「孟法師碑」「房玄齢碑(ぼうげんれいひ)」などです。

雅塾通信 第87号・・・売初(うりぞめ)の和菓子選んで訪れぬ(H27.1.1)

あけましておめでとうございます。
今年は未年(ひつじ)、なんとなく穏やかな印象ですが。。
 十二支では、第八番目、方位は南から西へ三十度の南南西の方角、時刻は現在の午後二時ごろ、または午後一時頃から午後二時ごろまでの間、月では八月、動物では羊が充てられています。
 未の字は、木のまだ伸び切らない部分を描いた象形文字。「まだ・・・していない」の意味で、未完成、未定、未熟などと使われています。
 羊(未)に関する故事・ことわざでは、<羊頭狗肉>=羊の頭を看板に出しておいて、実際には犬の肉を売る。見せかけは立派でも中身が伴わないこと。<多岐亡羊>=分かれ道が多すぎて羊を逃がすことから方針があまりにも多いため、どれを選んでよいか思案に困ること(以上十二支の話題辞典より)
 小学生のころ、唱歌で「箱根八里」を教わりましたが、歌詞の中に”昼なお暗き杉の並木、羊腸の小径は苔滑らか”という一節がありますが、羊腸の小径の意味が分からずに歌っていて、そのまま蓋をして大人になってしまったことを思い出しました。
 いずれにしても羊はおとなしくて従順な性格の代表ですが、暖毛に隠れた瞳を覗くと、「世の中の出来事と私、関係ありません」と言っているようです。

中国の書の歴史・・・その23
 欧陽通(おおようとう)=欧陽詢の晩年の子(第4子)で幼少にして父を失い、母によって父の欧法を学び、大小欧陽と併称されました。父の書より書線が引き締まり筆勢が溌刺としているとの評もありますが、縦画、骨格、品格が父には及ばないといわれています。
 現在残っている作品は少なく、道因法師碑=下図左(龍朔三年・663)、泉男生墓誌銘=下図右(せんだいせいぼしめい・調露元年・679)の二件だけです。



雅塾通信 第86号・・・秋うらら 里帰りし娘(こ)の昼寝かな(H26.12.1)

 先月、部外者ではありますが誘われて歴史散歩の会の皆さんと水戸散策へ行ってきました。
 江戸末期幕府崩壊の落日を感じながら尊王攘夷に生きた九代藩主徳川斉昭の業績などボランティアの解説を聞きながら見学しました。
 斉昭は「烈公」と呼ばれただけあって激しい時代背景の中、現代の水戸市の繁栄の基礎を精力的にいづいた人のように思えます。学問の府である「弘道館」を立てて文武の修業の場とし、「偕楽園」とその敷地内に建てた、わび、さびの館「好文亭」で緊張緩和・いわるゆ遊ぶ、という硬軟両政策を実施しました。また、兵糧と飢餓の祭の食料として役立てる目的で梅の栽培を命じています。
 斉昭の政策には水戸学と言われる儒教思想や尊皇の国家意識と共に陰陽哲学を多分に取り入れた考えが根底にあるように感じました。
 随所に斉昭の気力の充満した力強い書や碑が直筆で残されています。楷書・行書・草書・隷書・篆書・かな、すべての書体に通じていて驚きです。
 斉昭は「桜田門外の変」が起きた1860年に60歳で亡くなっていますが、水戸といえば「偕楽園」というほど有名になった日本の三名園を中心に、日本中から観光客が訪れる名所のなっています。
 もっともっと深く知りたい街でした。
 崖急に 梅ことごとく斜めなり・・・子規

中国の書の歴史・・・その22
 欧陽詢=初唐の三大家の一人で欧陽は複姓です。字(あざな)は信本(しんぽん)。湖南省長沙の人で 陳・隋と経て、唐の初代高祖に仕えています。二代目太宗が即位(626年)したときはすでに70歳になっていて楷書の極則と呼ばれる九成宮醴泉銘(632)は76歳の時の書となります。
 書風は北派流といわれることが多いが、神田喜一郎氏は「書道研究」誌で「王羲之・王献之を学び、南北数家の法を混一して別に一家を成した」「虞世南が専ら二王の書を主とし、南派の書を良くしたのとは対照的立場にあったものというべきである」と述べています。

雅塾通信 第85号・・・秋うらら 里帰りし娘(こ)の昼寝かな(H26.11.1)

中国の書の歴史・・・その21
 前回、太宗皇帝の作品、「晋祠銘」と「温泉銘」を図版で載せましたので、中国書道辞典・書の基本資料誌を参考にして概略を説明します。

 「晋祠銘」=この碑は春秋時代の晋国の祠廟に建てられているのでこの名があります。今の山西省太原市の晋祠に現存しています。
 太宗皇帝が高句麗征伐の帰途にここに立ち寄り、神に天下統一を告げ、報恩のため撰書して建てたものです。碑身195㌢×123㌢、題額は*飛白書(ハケ筆のようなもので書いた書体)で「貞観廿年正月廿六日」と三行に大書されています。本文は行書28行・行44字~50字、書は筆力があり堂々と王者の風格を備えています。石質が良くないため筆法の鋭さ、すばらしさは欠けています。
 本来、碑文は厳格典雅を重視し楷書、隷書、篆書などで過去には書かれていましたが、皇帝自ら行書で書いた為、以来、行書碑が流行しだしました。行書碑の第一号です。

「温泉銘」=これも撰文は太宗自身です。驪山(りざん)温泉の霊効や風物について述べられた碑で、これも堂々とした行書です。文字は王羲之風で「晋祠銘」によく似ていますが筆に速度があり流麗、筆力・骨力を蔵して線の強さ・美しさはこれを凌ぐといわれています。(前回図版参照)
原石はすでに無いため原碑の姿は不明ですが唐拓と推定される拓本が敦煌石窟で発見され、行書48行・250余字を在しています。現在はパリの博物館に蔵されています。

*飛白書=書体の一種、後漢の蔡邕が掃除後の帚目にヒントを得て作ったものと言われています。
漢から魏にかけては相当流行していました。「画中に白の部分がリズミカルに散在している書」で隷書体の範疇に入ります。
唐代の題額にいくつかの例はありますが現代ではすでに滅びた書体です。空海はこれを輸入して独自な形態まで発展させ空海体を創始しましたが一代で終わりました。

雅塾通信 第84号・・・月さすや 本を片手に床に就く(H26.9.1)

中国の書の歴史・・・その20
 唐の二代目太宗皇帝(597~649)は文墨を好み、特に王羲之の書を愛し、金にいとめをつけずに全国から収集しました。それらの鑑定をしたのが、欧陽詢(おおようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚遂良(ちょすいりょう)らです。太宗は集めた書跡の中から選書して搨本(とうほん=石搨にして写し取ったもの=拓本)をつくり、家臣に習わせたり、王羲之の字を集めて<聖教序>の碑を建てたりしました。
 皇帝のこの熱狂的な書道嗜好は前述の三大家を輩出し、書の隆盛期を形成しました。また、太宗は自らも健筆を揮い、王羲之風をベースにし、王者の風格もそなえた堂々たる雄壮な行草書を残しています。代表的作は<晋祠銘=しんしめい>と<温泉銘>です。
 「吾、古人の書を学ぶに、殊にその形勢を学ばず、ただその骨力を求む、而して形勢は自ずから生ず」これは太宗自身の言葉として残っています。

雅塾通信 第83号・・・名月に 俯瞰されるや地球星(H26.9.1)

中国の書の歴史・・・その19
 前回の故宮博物院の話から、宋代の書のことについてふれてしまいましたが、時代を戻して唐代の書について説明をします。
 約300年続いた唐代は外国との交流も盛んで特に西域の影響を深く受け書に限らず一台芸術の勃興した時代と言えるでしょう。
 むろん、唐代は書の発展でも目覚ましいものがありました。
 背景のひとつに書道の学校を設け書学博士を置き書道を教えたことがあります。そして官吏登用試験の科挙に書道を加えたのです。官吏として公文書を書くためには当然整った正しい楷書体を書くことが要求されました。形の整った端正な楷書碑が建立され今日に残っています。
 欧陽詢(557~641)の<九成宮醴泉名>、虞世南(558~638)の<孔子廟堂碑>、褚遂良(596~658)の<雁塔聖教序>などの後世不朽の名作と言われる楷書碑が誕生しました。
 これは隋の南北書派の融和が大きな原動力になっていると思います。盛唐期には顔真卿(709~758)が出て、力強い楷書も生まれました。
 その他、行書、草書の分野でも名品が生まれています。飛白書、則天文字、狂草なども目につきます。
 次回からはしばらく唐代の書を追いかけてみたいと思います。

雅塾通信 第82号・・・台風の 無事去り開く 音楽会(H26.8.1)

 東京国立博物館で開催中の台北故宮博物院展を見てきました。(平成26年7月)
 文物全部ひっくるめると200点以上の展示物があり、書関係でも30数点の名品が展示されていて、目標を定めて観覧しないと、「凄かったなー」だけで終わってしまいそうです。
 勿論、書を中心として拝観しました。印刷本でおなじみの王羲之「遠宦帖」や孫過庭「書譜」、趙孟頫の「赤壁賦」「閑居賦」の真跡は、何度か臨書したおかげで親しみやすく、癖のない王羲之流の書体がすっと体にしみこんできました。
 しかし、今回の展覧会の主体は北宋時代の書が中心でした。規律に則った唐代までの書から、個性を出してきた人たちの書、いわゆる宋の四大家、祭襄(1012~1067)、蘇軾(1036~1101)、黄庭堅(1045~1105)、米芾(1051~1107)とその周辺の人たちの作品が多数展示されていました。
 唐代までの書は、貴族文化、高級官僚の書風が中心でしたが、宋代に入り科挙試験(隋代から始まった高級官僚登用試験制度で日本でいう公務員試験のようなもの、だが門戸は極端にせまい)の制度が変わり、地方試験も加わったため多くの貴族以外の人が高級官僚になれました。それらの人を士大夫(したいふ)と言いますが、彼らは学問を通して身に着けた豊かな教養を基盤として社会を導き、書の世界でも新しい流れを生み出しました。
 そららの代表格が前述の4名です。彼らは唐代までの普遍的な書の基礎の上に「意」を注ぎ込みました。。それは形だけの美しさを求めるだけでなく、筆墨を媒体として、心境、いわゆる胸中の思いをも表出できるものに発展させたのです。いわゆる個性的な書の出現です。
 今回の観覧はそのあたりの変化と、四大家の「生」の作品を観て、個性的な書の表現とはどんなものなのか、不遜ながらどの作家の作品の個性が一番自分に気に入るか、そんなことを見極めようと思って行きました。
 
 さて、ここで一般論になってしまいますが、書の鑑賞は難しい・・・という話をよく耳にします。確かにそうです。
 結論を言ってしまえば書の鑑賞は、する人なりの見方しかできない、その人が蓄積してきたものの範囲内でしか見えないということになります。
 しかし、その範囲内でも鑑賞の仕方によってその範囲を広げていくことはできます。
具体的な鑑賞法を記してみますと、
 イ、まず会場に入ったらこの中で一番いいのはどれかを決めようという気持ちで会場を一巡する。
   漠然としていますが、例えば、自分でもらって帰るとしたらどれがいい、位の基準でいいでしょう。
 ロ、一枚選んだら離れてみて作品の構成や雰囲気を感じたり、この作品のどこがどういいのか、
   なぜいいと思ったか、また近づいてみて、いいと思ったところの線をじっくりと指でなぞったりして
   (ふれてはいけません)どう筆を動かしたのかなど、起筆、送筆、終筆をじっくり観て自分自身の
   結論を出します。
 ハ、また数メートル離れて今観察したことを反芻してみる。
 ニ、これを繰り返して、なぜ作者はこう書いたのだろうかと疑問がもてれば素晴らしい、そして自分なりの
   作品に対する意見を作ってみることが大切です。
 *展覧会に行くたびにこうした見方をしていれば「よかったねー」「凄かったねー」だけの感想で終わることなく鑑賞眼も高まっていくことと思います。

2016年3月12日土曜日

雅塾通信 第81号・・・田植え時や 夜明けとともに村動く(H26.7.1)

中国の書の歴史・・・その18
 南北朝を統一した隋の国は37年という短命でしたが書の世界についていえば、南方の書派が融合された時代と言えます。
 隋代の書は碑や墓誌、造像記、写経などが残されていますが、ほとんど楷書で書風も温雅整斉です。
 有名な碑では<龍蔵寺碑><啓法寺碑>、墓誌では<美人董氏墓誌><蘇孝慈墓誌>などがあります。法帖としては、智永の<真草千字文>が特に有名です。
<真草千字文>については紹介しておきます。
「梁(502~557)」の周興嗣(しゅうこうし、?~521)が武帝の命によって編集したものです。すべて四言句からなる韻文詩です。千字文の最初は、王羲之の筆跡を忠実に模写(双鉤填墨)した習字の手本でした。後世は、識字の教科書としても使われました。真とは楷書で、草とは草書の事です。
 王羲之の子孫である智永(7代目の孫と言われている)は弟子たちの習字の手本にとこの千字文を王羲之風の書で書きました。
 智永は長安の永欣寺の住職で永禅師と称され、終日書を臨すること30年、諸体をよくしましたが、特に草書が得意と言われています。<真草千字文>は実に800余体をつくり、全国の寺々に施入しています。
”退筆山の如し”であったので、埋めて筆塚を作ったといわれています。智永は筆塚の創始者でもありました。

雅塾通信 第80号・・・春の昼、軍港クルーズの客となる(H26.6.1)

中国の書の歴史・・・その17
 王羲之時代に続く(時代は一部重なるが)書と言えば南北朝の碑や摩崖、墓誌名に書かれた書体でしょう。この時代の書の流れは大きく二つに大別できます。
 一つは三国時代以降急速に普及してきた楷行草書、王羲之が確立した美しく雅な書体にさらに力強さを加えた北魏の書が加わってきたこと、二つ目は前代からの主流であった篆隷体は衰退し、辺境な地においてのみ残されてしまったことです。
 これは文字の普及とともに必然的な流れですが、戦乱に明け暮れた五胡十六国時代から写経が盛んになってきたことも大きく影響しています。写経は楷書が主流でした。
 南北朝時代に残された造像記や碑はおびただしい数です。
 造像記は仏教崇拝の年から作られたもので、石窟をほり、石仏をつくり、その仏像を刻した由来を記した文字を刻したものです。
 敦煌の千仏洞、山西省大同の雲崗(うんこう)石窟、洛陽の龍門石窟が中国の三大石窟です。
 代表的な造像記の文字としては牛橛(ぎゅうけつ)と始平公を、碑としては張猛龍碑(ちょうもうりょうひ)、鄭義下碑(ていぎかひ)をそれぞれ載せておきます。

2016年3月6日日曜日

雅塾通信 第79号・・・カルチャーに並ぶ白髪春二番(H26.5.1)

 今夏、台湾(台北)の故宮博物院の名品230点あまりが東京国立博物館で出品展示されます。
書は東博では31点あります。
 その中で個人的に特に見てみたいものは、孫過庭の「書譜」、趙孟頫(ちょうもうふ)の「赤壁賦」「閑居賦」、蘇軾「黄州寒食詩巻」、王羲之「遠宦帖(えんかんじょう)=手紙文」などです。
 ご存知と思いますが、故宮博物院は二つあります。一つは北京市天安門広場の北側に建つ紫禁城、もう一つは台北市郊外にある故宮博物院です。ちょっと歴史を紐解いてみます。

 紫禁城は15世紀のはじめに明の永楽帝が造営し、辛亥革命で清が滅びるまで、約490年にわたる二代王朝の居城でした。
 1924年11月、中国最後の皇帝・溥儀が紫禁城を去った翌年、名称を故宮博物院と改めています。
中国の歴代皇帝は、文物を収集することに熱心でした。
それは単に興味があったという以上にそれら歴史が生み出した文物を所有することで、自らが中華文明の正当な継承者であることを実感し証明したかったのでしょう。多くの民族が入れ替わり立ち代わり皇帝の座に就いた中国の歴史の中にあってはそれは権力の象徴として必要不可欠のものだったと思います。
 当時はおよそ200万点にのぼる文物が収蔵されていたといわれています。
 しかし、紫禁城の宝物は、清王朝に取って代わった国民党とあらたに興った毛沢東ひきいる中国共産党との戦いによって流転を余儀なくされました。
 第二次世界大戦後に熾烈化した国共内線のさなか、それらの宝物は重慶、昆明、南京などの都市を転々とし、ついに戦いの結果として蒋介石率いる国民党の手で台湾へ運ばれました。
 不幸な歴史によって、皇帝のコレクションは二つの都市に離れ離れになってしまったのです。
 現在、北京の故宮博物院には約百万点、台北の故宮博物院には約七十万点の文物が収蔵されています。
 呼吸は、二か所にわかれて存在することになりましたが、ほかの博物館には観られない独自性があります。故宮博物院が所蔵している文物はすべて自分たちの祖先が作り出し、伝えてきたいわば家宝のようなものです。文明八勝以来、子々孫々が守り通してきた自前の文化の結晶です。他国の文物を多く抱え目玉にしている有名博物館が多い中でこれは世界に類を見ない博物館として位置を保っています。