漢字の歴史・・・その22
(四)則天文字
則天文字は則天武后(そくてんぶこう=625~705)」が作らせた文字です。則天武后は姓を武、名は照といい、唐(617~907)」の太宗皇帝(597~649)の才人(女官)となり、太宗の没後、高宗(628~683)の皇后になりました。高宗の死後、嗣子の皇帝である中宗・睿宗(えいそう)をあいついで退位させ自ら帝位につき則天大聖皇帝と称し、国号を周(684)と改めました。
帝位につくや宗秦客(そうしんかく)に命じて十九字の新字をつくらせて世におこなわせました。これを則天文字と言います。その造字法には一定の基準もなく美的要素もないので、武后の没後は廃絶しました。
八方に国威を宣揚する願望から「圀」の字を作り、空の上に太陽のごとく輝く存在を表す「瞾」を武后の名「照」をあてた権威主義の産物「則天文字」はむなしく短命に終わりました。
その他にも漢字を母体として生まれた文字には(五)女真文字=じょしんもじ=女真族、(六)字喃文字=ちゅのむもじ=ベトナム、(七)壮文字=ちゅわんもじ=壮族など、中国の東北部および東南アジアに分布する文字は、常に長い歴史と文化をもつ漢字を中心に展開し、その影響のもとに誕生し、また滅亡して死字となっていきました。
新しい文字の創造は、民族意識の表れかもしれませんが、その多くは漢字を自国語に適応させるために払われた先人の英知の結晶であり、その冠たるものは日本の「かな」ではないでしょうか。
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