漱雲会 廃刊
漱雲誌は先師北田岳洋先生が31歳のとき昭和8年に創刊、途中戦争で一次休刊を余儀なくされた期間はありますが、実に80年余、4月号で811号におよぶ超ロング競書誌でした。
岳洋先生は平成11年に97歳でお亡くなり、になりましたが、その後は息子さん(故人)のお嫁さん久美子さんが代表を務めて現在に至っております。
先師北田岳洋先生は創刊号より亡くなる直前まで漱雲誌に巻頭言を執筆していました。私が入会して二年ほど経った昭和45年9月に第300号記念号が出ましたがその巻頭言に漱雲誌の歴史が紹介されていますので抜粋してみます。
「本誌は昭和8年12月謄写版刷りで創刊、第4号より活字印刷に切り替え、そのまま昭和13年5月まで発行、その年の4觿月に小生応召のため一時休刊。昭和16年外地より帰還後直ちに再刊を計画したが、戦争も益々熾烈、之に加えて紙類も統制に遇い終にこれを断念、昭和18年再度応召、仏印で終戦、翌21年5月内地に帰還、郷里に帰れば戦災のため家屋は消失、家族も全員死亡、一時は全く途方に暮れなすすべもなかったのである。
昭和25年4年暫く念願かなって、再刊第1号を発行できたのであるが、帰還後約4年間は慣れない農事に従事、その余暇に漱雲誌を発行、昭和27年1月現在地に落ち着くまで、その状態が続いたのである。
その頃雑誌には小生の肉筆手本1枚づつ付けて行ったが、会員が800人を超えるようになってそれも中止せざるをえなくなった。農事の余暇に800枚の肉筆手本は、毎日30枚書かねばならず、その手本と雑誌編集は殆ど夜の仕事であり、苦しい毎日であったが、今になってみればまた楽しい思い出の一つでもある。今月待望の300号を迎えたことを契機として、一層駄馬に鞭打って自分の生ある限り皆様のお力を拝借してさらに漱雲誌の発展に力を尽くしたいと念願しております。・・・略」
2015年12月31日木曜日
2015年12月27日日曜日
雅支部通信 第64号・・・文明に背を向けきれず去年今年(H25.1.1)
さて、今年は巳年です。十二支の六番目、方位は南南東、時刻は現在の午前十時ごろ、または午前九時ごろから午前十一時ごろまでの間。月では6月、動物では蛇が充てられています。
巳の字は、蛇の形から生まれたもので、頭と体ができかけた胎児を描いた象形文字です。
私事ですが今年は私にとって六回目の干支(年男)に当たります。「蛇」というと気味悪い代名詞みたいでどうもあまり好かれていないようです。それを思ってか巳年の運勢などをみると晩年は反映するとか、恵まれるなどと書かれています。
また、古来から水界の神性生物とみられて、水の神として信仰され、ただならぬ呪力をもっていると思われてきました。家の守護神として財産を守ってくれるという信仰もあります。
「蛇の皮を財布に入れておくとお金がたまる」「蔵の蛇を殺すと貧乏になる」という俗説もあって、蛇と金運は切っても切れない縁があるようです。
一方、「蛇の夢を見ると良いことがある」「マムシの夢を見ると金がはいる」ともいわれ、蛇の夢は縁起の良いものとされています。特にマムシの夢は吉兆だそうです。
さらに、神話(メキシコ)にでてくる羽根の生えた蛇の神(ケツカルコワルト)は商業の神、医学の神として尊重され、高校や大学の校章にも使われています。世界保健機構(WHO)のマークにも蛇が使われています。
もう少し辞典を参考にして「巳・蛇」のことにこだわってみます。
「巳・蛇」のつく用語では「蛇口」「蛇の目傘」「蛇腹」「蛇行」「蛇足」、料理で「蛇腹切り」などがおなじみです。故事ことわざでは、「鬼が住むか蛇が住むか」=どんな恐ろしいものが住んでいるかわからないこと。
「蛇は一寸を出してその大小を知り、人は一言をもってその賢愚を知る」
「蛇七曲り曲がりて我が身曲がりたりと思わず」=蛇が自分の体が曲がっているのに気づかないように人間も自分の欠点や短所に気づかず反省しないものであるという厳しい言葉。
「蛇のごとく、鳩のごとく」=人生は賢く、温和であれという処世術。キリストの教えとか。
「藪をつついて蛇を出す」=しなくてもいい余計なことをしてかえって禍を受けるたとえ。
最後に「蛇(じゃ)は一寸にしてその気あり」=蛇は一寸ほどの小さい時から気迫がある。という元気あふれる言葉で締めたいと思います。
巳の字は、蛇の形から生まれたもので、頭と体ができかけた胎児を描いた象形文字です。
私事ですが今年は私にとって六回目の干支(年男)に当たります。「蛇」というと気味悪い代名詞みたいでどうもあまり好かれていないようです。それを思ってか巳年の運勢などをみると晩年は反映するとか、恵まれるなどと書かれています。
また、古来から水界の神性生物とみられて、水の神として信仰され、ただならぬ呪力をもっていると思われてきました。家の守護神として財産を守ってくれるという信仰もあります。
「蛇の皮を財布に入れておくとお金がたまる」「蔵の蛇を殺すと貧乏になる」という俗説もあって、蛇と金運は切っても切れない縁があるようです。
一方、「蛇の夢を見ると良いことがある」「マムシの夢を見ると金がはいる」ともいわれ、蛇の夢は縁起の良いものとされています。特にマムシの夢は吉兆だそうです。
さらに、神話(メキシコ)にでてくる羽根の生えた蛇の神(ケツカルコワルト)は商業の神、医学の神として尊重され、高校や大学の校章にも使われています。世界保健機構(WHO)のマークにも蛇が使われています。
もう少し辞典を参考にして「巳・蛇」のことにこだわってみます。
「巳・蛇」のつく用語では「蛇口」「蛇の目傘」「蛇腹」「蛇行」「蛇足」、料理で「蛇腹切り」などがおなじみです。故事ことわざでは、「鬼が住むか蛇が住むか」=どんな恐ろしいものが住んでいるかわからないこと。
「蛇は一寸を出してその大小を知り、人は一言をもってその賢愚を知る」
「蛇七曲り曲がりて我が身曲がりたりと思わず」=蛇が自分の体が曲がっているのに気づかないように人間も自分の欠点や短所に気づかず反省しないものであるという厳しい言葉。
「蛇のごとく、鳩のごとく」=人生は賢く、温和であれという処世術。キリストの教えとか。
「藪をつついて蛇を出す」=しなくてもいい余計なことをしてかえって禍を受けるたとえ。
最後に「蛇(じゃ)は一寸にしてその気あり」=蛇は一寸ほどの小さい時から気迫がある。という元気あふれる言葉で締めたいと思います。
2015年12月26日土曜日
雅支部通信 第63号・・・大通り 即かず離れぬ落ち葉かな(H24.12.1)
中国の書の歴史・・・その7(漢代2)
前漢中期から前漢後期には、河北省から「論語」の竹簡をはじめ、墓葬の副葬目録など多数の木簡による肉筆資料が出土しています。このころになると書体は小篆と隷書の折衷体で書かれたものなどもありこれらは秦代の篆書の早書き書風から、波磔(はたく)を発生させて隷書に移っていく過程を示しています。漢隷への発展過程の書風といわれています。
さらに、現在中国全土から出土している木簡や竹簡(あわせて簡牘=かんとく=という)の中で、早期に発見された敦煌のそれが有名ですのでちょっと触れてみますと、1900年から1908年にかけてイギリスのオーレル・スタイン(1862~1943)が敦煌、桜蘭を探検した際、おびただしい数の書跡、古文書、木簡残紙を発見しましたがそれらを敦煌漢簡といいます。(居延漢簡は居延県=内蒙古)
この発見は木と紙の両方あって、書体も古隷、八分(はっぷん)、草書(隷書の速書)のほか章草(字画は今の行草書に似て筆法は漢隷風な書体)からほとんど草書に近いものまであります。篆書の簡牘はわすかで、実用の要求からすでに草隷、さらに草隷から草書へとニーズは移行していることを示しています。しかし時代はまだ紀元前です。本格的な草書は後漢の末まで待たなければならないでしょうが、木簡の発見で隷書から草書が生まれてきたことが実証されたわけです。
このころの木簡・残紙の用筆法は、逆筆にて強く突っ込み、あとは筆の弾力性を利用して抜くように筆を収めています。木簡による書の変遷の一部を居延漢簡にて紹介してみます。
戦国初期から晋にかけて展開された木・竹簡、帛書の歴史を辿ると、篆書・隷書・草書・行書・楷書などさまざまな書体があります。
前漢中期から前漢後期には、河北省から「論語」の竹簡をはじめ、墓葬の副葬目録など多数の木簡による肉筆資料が出土しています。このころになると書体は小篆と隷書の折衷体で書かれたものなどもありこれらは秦代の篆書の早書き書風から、波磔(はたく)を発生させて隷書に移っていく過程を示しています。漢隷への発展過程の書風といわれています。
さらに、現在中国全土から出土している木簡や竹簡(あわせて簡牘=かんとく=という)の中で、早期に発見された敦煌のそれが有名ですのでちょっと触れてみますと、1900年から1908年にかけてイギリスのオーレル・スタイン(1862~1943)が敦煌、桜蘭を探検した際、おびただしい数の書跡、古文書、木簡残紙を発見しましたがそれらを敦煌漢簡といいます。(居延漢簡は居延県=内蒙古)
この発見は木と紙の両方あって、書体も古隷、八分(はっぷん)、草書(隷書の速書)のほか章草(字画は今の行草書に似て筆法は漢隷風な書体)からほとんど草書に近いものまであります。篆書の簡牘はわすかで、実用の要求からすでに草隷、さらに草隷から草書へとニーズは移行していることを示しています。しかし時代はまだ紀元前です。本格的な草書は後漢の末まで待たなければならないでしょうが、木簡の発見で隷書から草書が生まれてきたことが実証されたわけです。
このころの木簡・残紙の用筆法は、逆筆にて強く突っ込み、あとは筆の弾力性を利用して抜くように筆を収めています。木簡による書の変遷の一部を居延漢簡にて紹介してみます。
戦国初期から晋にかけて展開された木・竹簡、帛書の歴史を辿ると、篆書・隷書・草書・行書・楷書などさまざまな書体があります。
雅支部通信 第61号・・・列島の いずこも待つや赤とんぼ(H24.10.1)
中国の書の歴史・・・その6
専制君主のかぎりをつくして急成長した秦も数々の実績を残しましたが崩れるのも早くわずか15年余りで幕を閉じました。
続く漢代は400年にわたる長期政権で書道史から見ても多種多様な時代です。漢隷という言葉がありますが漢の時代というとまず「隷書」が頭に浮かびます。端正に書かれた碑文の隷書は確かに漢を代表する書体ですが、その他にもたくさんの書風、書跡が発見されています。
まず前漢初期から中期ではその一つ「帛書(はくしょ)」が発見されています。帛書とは文字通り帛(絹)に書かれた文字で代表格は1972年(昭和47年)に湖南省長沙市馬王堆(こなんしょうちょうさしまおうたい)で発見された「老子甲・乙本」「春秋事語」「戦国策」などです。これらは書体もさることながら中国古代史を実証する貴重な資料です。
帛書の特徴はなんと言っても文字数をたくさんに書け、かさばらないことでしょう。書物にするには最適だったと思われます。
専制君主のかぎりをつくして急成長した秦も数々の実績を残しましたが崩れるのも早くわずか15年余りで幕を閉じました。
続く漢代は400年にわたる長期政権で書道史から見ても多種多様な時代です。漢隷という言葉がありますが漢の時代というとまず「隷書」が頭に浮かびます。端正に書かれた碑文の隷書は確かに漢を代表する書体ですが、その他にもたくさんの書風、書跡が発見されています。
まず前漢初期から中期ではその一つ「帛書(はくしょ)」が発見されています。帛書とは文字通り帛(絹)に書かれた文字で代表格は1972年(昭和47年)に湖南省長沙市馬王堆(こなんしょうちょうさしまおうたい)で発見された「老子甲・乙本」「春秋事語」「戦国策」などです。これらは書体もさることながら中国古代史を実証する貴重な資料です。
帛書の特徴はなんと言っても文字数をたくさんに書け、かさばらないことでしょう。書物にするには最適だったと思われます。
2015年12月22日火曜日
雅支部通信 第60号・・・羅臼見ゆ 秋なお暑しオホーツク(H24.9.1)
中国の書の歴史・・・その5
中国を統一した始皇帝は、秦国の方針、すなわち思想・命令を徹底させるためにおこなった最初の仕事が文字の統一でした。そして、秦国の実権を天下にひろく知らしめる為と同時に文字を普及させる目的から、四方に巡幸の折、小篆を使った刻石を建て、自ら徳を褒め称えました。
著名な刻石に<泰山刻石><嶧山(えきざん)刻石><瑯耶台(ろうやだい)刻石><会稽(かいけい)の刻石>などがあります。
これらの諸政策をすすめる上で忘れてならないのは、文字統一の事業をはじめ、これらの刻石の筆者と言われている丞相、李し(りし)の存在です。李しはこお書体を広めるために児童用の識字読本「蒼頡篇(そうけつへん)」をつくり、それを小篆で記したほか権量文字、印壐にまでその筆跡をふるった始皇帝の片腕と目される役人です。
なお、1975年(昭和50年)に湖北省雲夢県から一千点に及ぶ竹簡(睡虎地秦簡)が発見され、それが秦時代のものとわかり秦代は篆書の時代と言われながらも、正式な文書は小篆がつかわれ、行政機関でも、普通に記録する場合の文字には書きやすい隷書が使われていたことが明らかになりました。
中国を統一した始皇帝は、秦国の方針、すなわち思想・命令を徹底させるためにおこなった最初の仕事が文字の統一でした。そして、秦国の実権を天下にひろく知らしめる為と同時に文字を普及させる目的から、四方に巡幸の折、小篆を使った刻石を建て、自ら徳を褒め称えました。
著名な刻石に<泰山刻石><嶧山(えきざん)刻石><瑯耶台(ろうやだい)刻石><会稽(かいけい)の刻石>などがあります。
これらの諸政策をすすめる上で忘れてならないのは、文字統一の事業をはじめ、これらの刻石の筆者と言われている丞相、李し(りし)の存在です。李しはこお書体を広めるために児童用の識字読本「蒼頡篇(そうけつへん)」をつくり、それを小篆で記したほか権量文字、印壐にまでその筆跡をふるった始皇帝の片腕と目される役人です。
なお、1975年(昭和50年)に湖北省雲夢県から一千点に及ぶ竹簡(睡虎地秦簡)が発見され、それが秦時代のものとわかり秦代は篆書の時代と言われながらも、正式な文書は小篆がつかわれ、行政機関でも、普通に記録する場合の文字には書きやすい隷書が使われていたことが明らかになりました。
2015年12月21日月曜日
雅支部通信 第59号・・・沈黙は ほどよきことば 草を取る(H24.8.1)
中国の書の歴史・・・その4
東周も末期になってくるといわゆる春秋戦国時代に入ります。各国の分裂に伴い地方地方によって文字も乱立状態に陥りますが青銅に鋳造していた文字を石に刻んで残す石刻文字が生まれてきたのもこの時代です。その代表が石鼓文です。石鼓文は文字の歴史上重要ですので少し説明を加えます。これは中国最古の石鼓文字で、戦国時代の末期、統一以前の秦の文字と言われております。刻された石の形が鼓に似ているのでこの名前がつけられています。石の高さは約50センチで10石よりなってます。損傷が激しいので700文字以上あった文字も現在では272字を残すのみです。内容は狩猟に関する事が書かれていますが、何の目的で書かれたか使われたか明白ではありません。一時行方不明になるなど数奇な運命をたどりましたが今は北京の故宮博物院に保存されています。
書体は独特なもので、ほかにこれに類するものは見つかっていません。楊守敬は「石鼓は即ち上は古文を変じ、下は篆体を開く。いわゆる籀文(ちゅうぶん)なるものはまさにこれをもってこれに当てるべし」といい、藤原楚水は「その書は周代の古銅器、秦の小篆との中間に位するもので、やはり籀文の一種で、後の秦篆、すなわち小篆に対して、大篆と呼ばれるべきものである」と言っています。
30数年間にわたった戦国時代を平定した秦の始皇は天下を統一しました。始皇帝は在位15年間の短い間に数々の実績を残しましたが字体の統一はその中でも大きな事業でした。いわゆる篆書体(小篆)と言われる文字です。
均整のとれた美と格調の高さを感じさせるこの文字は、現在でも印鑑に、篆刻に、さらには書作品にも応用されています。
東周も末期になってくるといわゆる春秋戦国時代に入ります。各国の分裂に伴い地方地方によって文字も乱立状態に陥りますが青銅に鋳造していた文字を石に刻んで残す石刻文字が生まれてきたのもこの時代です。その代表が石鼓文です。石鼓文は文字の歴史上重要ですので少し説明を加えます。これは中国最古の石鼓文字で、戦国時代の末期、統一以前の秦の文字と言われております。刻された石の形が鼓に似ているのでこの名前がつけられています。石の高さは約50センチで10石よりなってます。損傷が激しいので700文字以上あった文字も現在では272字を残すのみです。内容は狩猟に関する事が書かれていますが、何の目的で書かれたか使われたか明白ではありません。一時行方不明になるなど数奇な運命をたどりましたが今は北京の故宮博物院に保存されています。
書体は独特なもので、ほかにこれに類するものは見つかっていません。楊守敬は「石鼓は即ち上は古文を変じ、下は篆体を開く。いわゆる籀文(ちゅうぶん)なるものはまさにこれをもってこれに当てるべし」といい、藤原楚水は「その書は周代の古銅器、秦の小篆との中間に位するもので、やはり籀文の一種で、後の秦篆、すなわち小篆に対して、大篆と呼ばれるべきものである」と言っています。
30数年間にわたった戦国時代を平定した秦の始皇は天下を統一しました。始皇帝は在位15年間の短い間に数々の実績を残しましたが字体の統一はその中でも大きな事業でした。いわゆる篆書体(小篆)と言われる文字です。
均整のとれた美と格調の高さを感じさせるこの文字は、現在でも印鑑に、篆刻に、さらには書作品にも応用されています。
2015年12月20日日曜日
雅支部通信 第58号・・・程ほどと 一人つぶやき古茶いるる(H24.7.1)
中国の書の歴史・・・その3
中国の王朝が最も永く続いたのが周代です。西周(前1121~前770)・東周(前770~前256)と合わせると実に850年あまり王朝の伝統を継承しました。
中国の青銅器時代は、殷の末期から周にかけてが全盛期です。周代の金文も殷末の特徴を受け継いで規模雄大で力強く威厳があります。西周を前・中・後期に分けて考えてみると、その前期の代表格は「大盂鼎(だいうてい)」=鼎は食物を煮るのに使われた」と「毛公鼎(もうこうてい)」に刻(鋳造)されている金文です。
「大盂鼎」は高さ102.1センチ、上部の口径78.4センチ、重さ153.5キログラムという雄品です。この鼎はすぐれた武将であった盂が、ときの康王に恩賞を授かった記念に作器したもので、王から下された辞令の内容がそのまま挿入されていて貴重です。書風は殷代の金分の特徴である、気宇壮大、厳正にして雄偉な筆勢が感じられます。
「毛公鼎」は高さ53.8センチ、上部の口径47.9センチ、重さ34.7キログラムで「大盂鼎」をひとまわり小型にした鼎ですが銘文は499字で「大盂鼎」の291字をはるかにしのいでいます。
内容は「大盂鼎」同様、毛公が周王から車馬や衣服などを下賜(かし)された記念に作った鼎です。書風は、筆画鋭く、雄偉にして麗しく、変化にも富んでおり円熟味をうかがわせる雄品です。
中国の王朝が最も永く続いたのが周代です。西周(前1121~前770)・東周(前770~前256)と合わせると実に850年あまり王朝の伝統を継承しました。
中国の青銅器時代は、殷の末期から周にかけてが全盛期です。周代の金文も殷末の特徴を受け継いで規模雄大で力強く威厳があります。西周を前・中・後期に分けて考えてみると、その前期の代表格は「大盂鼎(だいうてい)」=鼎は食物を煮るのに使われた」と「毛公鼎(もうこうてい)」に刻(鋳造)されている金文です。
「大盂鼎」は高さ102.1センチ、上部の口径78.4センチ、重さ153.5キログラムという雄品です。この鼎はすぐれた武将であった盂が、ときの康王に恩賞を授かった記念に作器したもので、王から下された辞令の内容がそのまま挿入されていて貴重です。書風は殷代の金分の特徴である、気宇壮大、厳正にして雄偉な筆勢が感じられます。
「毛公鼎」は高さ53.8センチ、上部の口径47.9センチ、重さ34.7キログラムで「大盂鼎」をひとまわり小型にした鼎ですが銘文は499字で「大盂鼎」の291字をはるかにしのいでいます。
内容は「大盂鼎」同様、毛公が周王から車馬や衣服などを下賜(かし)された記念に作った鼎です。書風は、筆画鋭く、雄偉にして麗しく、変化にも富んでおり円熟味をうかがわせる雄品です。
2015年12月12日土曜日
雅支部通信 第57号・・・生き生きと 部活語るや 白牡丹(H24.6.1)
中国の書の歴史・・・その2
漢字起源の伝説から一歩話を進めて、殷王朝の後期・・・甲骨文字が使われていた時代です。
その頃はすでに青銅器文明も栄えており、貴族は農耕を主な生業とする庶民の上に立って、極めて豪奢な生活を営んでいました。甲骨文字は、この時代の殷王朝の遺物といえるでしょう。
甲骨文字とは・・・については漢字の歴史の項で述べましたが、書の歴史という観点から少し細かく分類すると五つの段階に大別することができます。
いわゆる第一期と言われる時代のものは文字も大きく線も太くて力強いものが多く、しかし字粒はそろっていません。
第二期では文字の大小が揃ってきており、全体の配列もかちっと丁寧で生真面目です。
それが第三期になると、なぜか文字はぞんざいに書かれるようになっていき、彫りも浅く不鮮明なものが多く中には誤字や脱字もかなり見られるものがあります。
第四期に入って、やや縦長の字形が多くなり、繊細な線で刻まれたなかにも力強さを秘めた鋭さが出てきます。
第五期は、肉眼で読むには少し苦労する程の小さな文字になり、規則正しく行を整えて書かれるようになってきました。
この変化は書道史的には特に興味というか注意を要するところでしょう。
とろこで以前、筆の話のところでも紹介しましたが、この時代にはすでに毛筆が存在した証拠があると書きました。それは甲骨文のなかにでてきます諸字は毛筆を手に持っている官吏を表した文字です。
原始的ではありますが、殷代に書道の芽生えが始まっており、中国最初の書道資料として甲骨文のもつ意味は大きいと言わねばなりません。(参考資料、書道全集、書の基本資料)
漢字起源の伝説から一歩話を進めて、殷王朝の後期・・・甲骨文字が使われていた時代です。
その頃はすでに青銅器文明も栄えており、貴族は農耕を主な生業とする庶民の上に立って、極めて豪奢な生活を営んでいました。甲骨文字は、この時代の殷王朝の遺物といえるでしょう。
甲骨文字とは・・・については漢字の歴史の項で述べましたが、書の歴史という観点から少し細かく分類すると五つの段階に大別することができます。
いわゆる第一期と言われる時代のものは文字も大きく線も太くて力強いものが多く、しかし字粒はそろっていません。
第二期では文字の大小が揃ってきており、全体の配列もかちっと丁寧で生真面目です。
それが第三期になると、なぜか文字はぞんざいに書かれるようになっていき、彫りも浅く不鮮明なものが多く中には誤字や脱字もかなり見られるものがあります。
第四期に入って、やや縦長の字形が多くなり、繊細な線で刻まれたなかにも力強さを秘めた鋭さが出てきます。
第五期は、肉眼で読むには少し苦労する程の小さな文字になり、規則正しく行を整えて書かれるようになってきました。
この変化は書道史的には特に興味というか注意を要するところでしょう。
とろこで以前、筆の話のところでも紹介しましたが、この時代にはすでに毛筆が存在した証拠があると書きました。それは甲骨文のなかにでてきます諸字は毛筆を手に持っている官吏を表した文字です。
原始的ではありますが、殷代に書道の芽生えが始まっており、中国最初の書道資料として甲骨文のもつ意味は大きいと言わねばなりません。(参考資料、書道全集、書の基本資料)
2015年12月10日木曜日
雅支部通信 第56号・・・清流も 鶯も透く 山路かな(H24.5.1)
中国の書の歴史・・・
1.殷時代(文字の始まり)
○伝説上の文字漢字の創造においては多くの伝説があります。その中の一つが太古の昔、神農氏と王が「結縄(けつじょう)」という方法を用いて文字の代わりにしていたという。伝説時代のことではたして結縄とはどうゆうものか詳しくわかっていません。しかし、今日南米のペルーあたりにもこの方法が残っているので、それによって考えると縄の結び方や色で意思を伝え合ったのではないかと想像されます。
次は庖犠氏(ほうぎし)という王が易の卦をつくったといわれているが、これも形を決めておき、それに従って意思伝達を交わしたと思われます。
また、黄帝の臣・蒼頡(そうけつ)という人が鳥や獣の足跡を見て、それらをヒントに「書契」(しょけい=鳥足文字)を作ったといわれてます。
これらはあくまで伝説上のことであって、実証性に乏しいのが残念である。
蒼頡は終始、鳥や獣と一緒にいるにふさわしく、森林中に生活していたのであろう。。木の葉や蓑を羽織っており、何よりも特筆すべきは目ざとい人らしく、4つの目を持っていることである。
1.殷時代(文字の始まり)
○伝説上の文字漢字の創造においては多くの伝説があります。その中の一つが太古の昔、神農氏と王が「結縄(けつじょう)」という方法を用いて文字の代わりにしていたという。伝説時代のことではたして結縄とはどうゆうものか詳しくわかっていません。しかし、今日南米のペルーあたりにもこの方法が残っているので、それによって考えると縄の結び方や色で意思を伝え合ったのではないかと想像されます。
次は庖犠氏(ほうぎし)という王が易の卦をつくったといわれているが、これも形を決めておき、それに従って意思伝達を交わしたと思われます。
また、黄帝の臣・蒼頡(そうけつ)という人が鳥や獣の足跡を見て、それらをヒントに「書契」(しょけい=鳥足文字)を作ったといわれてます。
これらはあくまで伝説上のことであって、実証性に乏しいのが残念である。
蒼頡は終始、鳥や獣と一緒にいるにふさわしく、森林中に生活していたのであろう。。木の葉や蓑を羽織っており、何よりも特筆すべきは目ざとい人らしく、4つの目を持っていることである。
2015年12月9日水曜日
雅支部通信 第55号・・・いとざくら 今亡き母の肩に似て(H24.4.1)
磨った墨が固まる
まず、安価な墨と高価な墨の違いです。墨は現在も手作りのため、墨の価格には原料の価格と職人さんの技量が大きく反映します。とくに原材料は、安価な煤(すす)から高価な手焚き油煙、さsらには貴重な純植物性松煙まで、その価格差は百倍以上です。また高価な墨は熟練の職人さんが作り、安価な墨は経験の少ない職人さんが作ることが多いため、人件費の違いも影響します。ただし、墨の良しあしは値段だけによるものではなく、安価でも品質の良いものが多数あるというから難しい。。。。
そこで墨の良し悪しを見分ける方法は?というと、墨づくりの大事なポイントは均一な流れの良い膠液(にかわえき)をつくり、煤とよく練り合わせることです。墨の型は梨の木で作られているため、この型の木目が墨の肌に写っているものが練の良く効いた墨だといえます。また、新墨で軽いものは良くありません。市販の墨は大半が五年以下のものですから、持ち重りのする墨肌の緻密なものを選びましょう。もちろん、信頼のできる墨のプロがいるお店で相談するのも、上手な買い方です。
また、小字、細字や写経用はのびの良い墨が好まれる傾向にあります。したがって、かな用は粒子が細かい油煙を原料とするため、流れは良いのですが黒味は弱くなります。一方漢字用は黒味を大切にするため、一般的には細かい煤を使いません。漢字用をかなに使っても問題なく、作品制作の上で黒色を強く出したいときは漢字用、黒味を抑え品よく表現したいときはかな用を使うと良いでしょう。
摩墨した墨がゲル化(ゼリー状に固まること)するのは膠の性質からくるものです。膠は水温が十八度以下になると固まります。冬場、硯が冷えていたり水温が低い場合、すり下ろした墨が分散せず、発墨しなくなります。分散の良い摩墨液をつくるには、冬でも室温を20度以上に保つか、硯に40度程度のお湯を注いで磨るか、硯を温めるかの工夫が必要になってきます。
墨は古いほど良いといわれてますがなぜかと言いますと、煤を練って固めるのに必要な膠の量が、書くときに必要とする膠の量より多いため、新墨は「粘る」「筆が重たい」と感じられます。膠はゼラチンを主成分とするタンパク質の一種であり、水の中で高分子から低分子へと変化します(加水分解)。
新墨は水分を多く含み、製造後3~5年で加水分解が進んで膠の粘度が低下します。その結果、運筆が軽くなり濃墨でも書きやすくなります。また経年とともに煤を分散させる力も弱まるため、運筆の基線が残り、透明感のあるにじみが表現できます。墨が古いほど良いと言われる所以です。良い条件で保管された名墨は百年二百年もちます。(参考資料「墨」誌ほか)
まず、安価な墨と高価な墨の違いです。墨は現在も手作りのため、墨の価格には原料の価格と職人さんの技量が大きく反映します。とくに原材料は、安価な煤(すす)から高価な手焚き油煙、さsらには貴重な純植物性松煙まで、その価格差は百倍以上です。また高価な墨は熟練の職人さんが作り、安価な墨は経験の少ない職人さんが作ることが多いため、人件費の違いも影響します。ただし、墨の良しあしは値段だけによるものではなく、安価でも品質の良いものが多数あるというから難しい。。。。
そこで墨の良し悪しを見分ける方法は?というと、墨づくりの大事なポイントは均一な流れの良い膠液(にかわえき)をつくり、煤とよく練り合わせることです。墨の型は梨の木で作られているため、この型の木目が墨の肌に写っているものが練の良く効いた墨だといえます。また、新墨で軽いものは良くありません。市販の墨は大半が五年以下のものですから、持ち重りのする墨肌の緻密なものを選びましょう。もちろん、信頼のできる墨のプロがいるお店で相談するのも、上手な買い方です。
また、小字、細字や写経用はのびの良い墨が好まれる傾向にあります。したがって、かな用は粒子が細かい油煙を原料とするため、流れは良いのですが黒味は弱くなります。一方漢字用は黒味を大切にするため、一般的には細かい煤を使いません。漢字用をかなに使っても問題なく、作品制作の上で黒色を強く出したいときは漢字用、黒味を抑え品よく表現したいときはかな用を使うと良いでしょう。
摩墨した墨がゲル化(ゼリー状に固まること)するのは膠の性質からくるものです。膠は水温が十八度以下になると固まります。冬場、硯が冷えていたり水温が低い場合、すり下ろした墨が分散せず、発墨しなくなります。分散の良い摩墨液をつくるには、冬でも室温を20度以上に保つか、硯に40度程度のお湯を注いで磨るか、硯を温めるかの工夫が必要になってきます。
墨は古いほど良いといわれてますがなぜかと言いますと、煤を練って固めるのに必要な膠の量が、書くときに必要とする膠の量より多いため、新墨は「粘る」「筆が重たい」と感じられます。膠はゼラチンを主成分とするタンパク質の一種であり、水の中で高分子から低分子へと変化します(加水分解)。
新墨は水分を多く含み、製造後3~5年で加水分解が進んで膠の粘度が低下します。その結果、運筆が軽くなり濃墨でも書きやすくなります。また経年とともに煤を分散させる力も弱まるため、運筆の基線が残り、透明感のあるにじみが表現できます。墨が古いほど良いと言われる所以です。良い条件で保管された名墨は百年二百年もちます。(参考資料「墨」誌ほか)
2015年12月8日火曜日
雅支部通信 第54号・・・冬帽子 背筋伸ばすや 朝の道(H24.3.1)
漢字の歴史・・・その22
(四)則天文字
則天文字は則天武后(そくてんぶこう=625~705)」が作らせた文字です。則天武后は姓を武、名は照といい、唐(617~907)」の太宗皇帝(597~649)の才人(女官)となり、太宗の没後、高宗(628~683)の皇后になりました。高宗の死後、嗣子の皇帝である中宗・睿宗(えいそう)をあいついで退位させ自ら帝位につき則天大聖皇帝と称し、国号を周(684)と改めました。
帝位につくや宗秦客(そうしんかく)に命じて十九字の新字をつくらせて世におこなわせました。これを則天文字と言います。その造字法には一定の基準もなく美的要素もないので、武后の没後は廃絶しました。
八方に国威を宣揚する願望から「圀」の字を作り、空の上に太陽のごとく輝く存在を表す「瞾」を武后の名「照」をあてた権威主義の産物「則天文字」はむなしく短命に終わりました。
その他にも漢字を母体として生まれた文字には(五)女真文字=じょしんもじ=女真族、(六)字喃文字=ちゅのむもじ=ベトナム、(七)壮文字=ちゅわんもじ=壮族など、中国の東北部および東南アジアに分布する文字は、常に長い歴史と文化をもつ漢字を中心に展開し、その影響のもとに誕生し、また滅亡して死字となっていきました。
新しい文字の創造は、民族意識の表れかもしれませんが、その多くは漢字を自国語に適応させるために払われた先人の英知の結晶であり、その冠たるものは日本の「かな」ではないでしょうか。
(四)則天文字
則天文字は則天武后(そくてんぶこう=625~705)」が作らせた文字です。則天武后は姓を武、名は照といい、唐(617~907)」の太宗皇帝(597~649)の才人(女官)となり、太宗の没後、高宗(628~683)の皇后になりました。高宗の死後、嗣子の皇帝である中宗・睿宗(えいそう)をあいついで退位させ自ら帝位につき則天大聖皇帝と称し、国号を周(684)と改めました。
帝位につくや宗秦客(そうしんかく)に命じて十九字の新字をつくらせて世におこなわせました。これを則天文字と言います。その造字法には一定の基準もなく美的要素もないので、武后の没後は廃絶しました。
八方に国威を宣揚する願望から「圀」の字を作り、空の上に太陽のごとく輝く存在を表す「瞾」を武后の名「照」をあてた権威主義の産物「則天文字」はむなしく短命に終わりました。
その他にも漢字を母体として生まれた文字には(五)女真文字=じょしんもじ=女真族、(六)字喃文字=ちゅのむもじ=ベトナム、(七)壮文字=ちゅわんもじ=壮族など、中国の東北部および東南アジアに分布する文字は、常に長い歴史と文化をもつ漢字を中心に展開し、その影響のもとに誕生し、また滅亡して死字となっていきました。
新しい文字の創造は、民族意識の表れかもしれませんが、その多くは漢字を自国語に適応させるために払われた先人の英知の結晶であり、その冠たるものは日本の「かな」ではないでしょうか。
2015年12月7日月曜日
2015年12月6日日曜日
雅支部通信 第52号・・・墨痕の 絆字太し 大根干す(H24.1.1)
漢字の歴史・・・その21
(三)西夏文字(せいかもじ)
遼が宋(960~1279)の北辺で広大な地域を占めていたころ、西方ではタングート族の西夏(1032~1227)が王国を建てました。
西夏王国はシルクロードの要衝にあったので高い文化を持っていました。しかも多民族国家で、各種の言葉が使われていたので国王の李元昊(りげんこう)は国語を西夏語で統一しようとし漢字を参考にして西夏文字を作らせました。楷書のほかに草書・篆書もありすべてで6000余字に及ぶとされています。
西夏が滅亡(1227)した後も引き続き使用されていましたが、前後300年を経て死字と化しました。
(三)西夏文字(せいかもじ)
遼が宋(960~1279)の北辺で広大な地域を占めていたころ、西方ではタングート族の西夏(1032~1227)が王国を建てました。
西夏王国はシルクロードの要衝にあったので高い文化を持っていました。しかも多民族国家で、各種の言葉が使われていたので国王の李元昊(りげんこう)は国語を西夏語で統一しようとし漢字を参考にして西夏文字を作らせました。楷書のほかに草書・篆書もありすべてで6000余字に及ぶとされています。
西夏が滅亡(1227)した後も引き続き使用されていましたが、前後300年を経て死字と化しました。
2015年12月4日金曜日
雅支部通信 第51号・・・残り葉を 見上げて拾う 落ち葉かな(H23.12.1)
漢字の歴史・・・その20
漢字は紀元前1500年ごろから、文明の発達とともに巨大な漢字文化圏を形成してきました。漢民族が創製した漢字は、周辺諸国にも利用されてきましたが、漢字を母体として生まれた文字も少なくありません。
その主なものについて記してみます。
(1) かな・和字
日本では平安朝前期(8世紀末、漢字音を利用して平仮名と片仮名をつくりました。平仮名・変体仮名は万葉仮名の草書体を簡略化してつくり、片仮名は万葉仮名の楷書体を略体化して作ったものです。
(2) 契丹文字
4世紀以来、内蒙古一体にいたモンゴル系の遊牧民族契丹の耶律阿保機(ヤリツアボキ、827~926)は周辺の部族を統一して遼(937~1125)を建国しました。建国後まもなく漢字を参考にして契丹文字をつくりました。契丹文字には楷書・行草・篆などの字体があり漢民族の書式を踏襲したものでしたが、金(1115~1234)に滅ぼされ、契丹文字も使われなくなり、伝承を失って死文字となってしまいました。ただし、契丹文字の資料は哀冊(あいさく=天子・皇后の生前の徳行や功績を記した韻文)や墓誌銘などとして残り、解読への研究も進んでいます。
漢字は紀元前1500年ごろから、文明の発達とともに巨大な漢字文化圏を形成してきました。漢民族が創製した漢字は、周辺諸国にも利用されてきましたが、漢字を母体として生まれた文字も少なくありません。
その主なものについて記してみます。
(1) かな・和字
日本では平安朝前期(8世紀末、漢字音を利用して平仮名と片仮名をつくりました。平仮名・変体仮名は万葉仮名の草書体を簡略化してつくり、片仮名は万葉仮名の楷書体を略体化して作ったものです。
(2) 契丹文字
4世紀以来、内蒙古一体にいたモンゴル系の遊牧民族契丹の耶律阿保機(ヤリツアボキ、827~926)は周辺の部族を統一して遼(937~1125)を建国しました。建国後まもなく漢字を参考にして契丹文字をつくりました。契丹文字には楷書・行草・篆などの字体があり漢民族の書式を踏襲したものでしたが、金(1115~1234)に滅ぼされ、契丹文字も使われなくなり、伝承を失って死文字となってしまいました。ただし、契丹文字の資料は哀冊(あいさく=天子・皇后の生前の徳行や功績を記した韻文)や墓誌銘などとして残り、解読への研究も進んでいます。
2015年12月3日木曜日
雅支部通信 第50号・・・1年の 落ち葉積りし 鎮守さま(H23.11.1)
漢字の歴史・・・その19(楷書)
楷書は一点一画を独立させて書く書体です。楷書の成立は、ほかの書体にくらべて一番遅いと言われています。西晋の泰始5年(269)の「詣鄯善王検(けいぜんぜんおおけん)」にはすでに横画や転折部に「三過折(さんかせつ)*1」の筆法が見られ楷書の成立は三世紀の後半と解釈されています。
楷書はよく「北碑派」と「南帖派」に分けられて比較されます。北魏の石などに刻された字を中心に学ぶ人たちと法帖を中心に学ぶ人たちをの流れです。
画に南北の別があるのと同様に、所にもこの別派があると唱えたのが、清朝の役人、文人でもあった「阮元(げんげん)」です。
時代によってはかなり激しい南北優劣論があったようですが、現在は阮元の疏泄をそれなりに肯定しながらも作品の一々については強いて南北に分類するというかたくなな態度はとらず、碑と帖とに甲乙を設けず、いずれも重視するという方向に向かっています。
現に今私たちが学んでいる王義之の系統は帖学派ですし、欧陽詢・褚遂良や北魏の碑や摩崖、鄭道昭を学べば碑学派になってしまいます。現在の中央の展覧会などを観てもまさに南北合一となっています。
*1…運筆法の一種。一画に三度の筆勢を変える法で、例えば横画一本引くのに、起筆、送筆、終筆と三つの姿勢をもたせ、その姿勢の統合のうえに運筆することなど。
楷書は一点一画を独立させて書く書体です。楷書の成立は、ほかの書体にくらべて一番遅いと言われています。西晋の泰始5年(269)の「詣鄯善王検(けいぜんぜんおおけん)」にはすでに横画や転折部に「三過折(さんかせつ)*1」の筆法が見られ楷書の成立は三世紀の後半と解釈されています。
楷書はよく「北碑派」と「南帖派」に分けられて比較されます。北魏の石などに刻された字を中心に学ぶ人たちと法帖を中心に学ぶ人たちをの流れです。
画に南北の別があるのと同様に、所にもこの別派があると唱えたのが、清朝の役人、文人でもあった「阮元(げんげん)」です。
時代によってはかなり激しい南北優劣論があったようですが、現在は阮元の疏泄をそれなりに肯定しながらも作品の一々については強いて南北に分類するというかたくなな態度はとらず、碑と帖とに甲乙を設けず、いずれも重視するという方向に向かっています。
現に今私たちが学んでいる王義之の系統は帖学派ですし、欧陽詢・褚遂良や北魏の碑や摩崖、鄭道昭を学べば碑学派になってしまいます。現在の中央の展覧会などを観てもまさに南北合一となっています。
*1…運筆法の一種。一画に三度の筆勢を変える法で、例えば横画一本引くのに、起筆、送筆、終筆と三つの姿勢をもたせ、その姿勢の統合のうえに運筆することなど。
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