中国の書の歴史・・・その16
通信75号で蘭亭序の文章には即興の草稿であるため誤字めいたもの、異体字等々があると書きましたが「墨」誌、王羲之特集号の中に紹介されている源川源鋒二松学舎大教授の「蘭亭序の中の異体字」を参考に抜粋します。
「禾偏に契」の字=禾偏の「契」の字はない。漢隷には示偏を禾偏に作った例はままある。王羲之はこれによった。
「契」=刀部分に点を加えているが点は不要である。これも漢隷に典拠している。
「峻領」=しゅんれい、「高い山」という意味なので、領には山冠が必要である。しかし漢隷の世界では「領」を「嶺」とみなしていた。今日、蘭亭序を創作で発表するなら領字は嶺字で書くべきである。
「攬」=この字は覧が正しい。避諱(ひき=死者の生前の本名を避ける)の風によって手偏の字に変えた「覧」字でないと「みる」とは読めない。
以上のように作品を作る際は誤字には十分注意を払わなければいけまあせんが、これがなかなか難しい。今使われている常用漢字は2,136字、歴代辞書に収められている字の数は、漢代の<説文解字>で約9,000字、南朝<玉篇>約20,000字、宋代<類篇>約31,000字、明代<字彙=字書>約33,000字、清朝<康熙字典>約46,000字、民国<中華大字典>約48,000字、中華人民共和国<漢語大字典>約54,000字、<中華字海>約85,000字とあります。
漢字は知らない字が圧倒的に多いと思います。したがってひとつの作品を作る場合は丹念に字書を調べることが大事です。特に草書作品を書く場合は注意が必要です。
北田岳洋先生が生前、「明代の草体は使わないように」と私たち初学者を今諫めた意味がこの頃ようやくわかってきたような気がします。
2016年2月21日日曜日
雅支部通信 第77号・・・熱き燗 はや後輩の古希の宴(H26.2.1)
昭和12年の漱雲誌二月号に掲載された北田岳洋先生(当時35歳)の巻頭言を紹介します。
書学者の口から折々聞くことであるが、「吾輩は昨今ちっとも上達しない、いっそ手習いをやめようかと思う、どうしたものだろう」と。孔門の亜聖顔回と雖も「罷(や)めんと欲して能わず」と嘆息した位だから、折々は學を罷め様と思ったことはあるに違いない。況んや凡人がその上達の見えないためいっそうもう罷め様かと思うことくらいの事は当然である。
凡ての如何なる芸術でも稽古のし初めには、なんだか一足飛びに上手くなったような気がするものでそれが段々稽古するにつれてどうもうまくならない、寧ろ下手になったような気がしてくる。誰でも同じくこの嫌気がでる時代に屹度遭遇する。これは進歩の一段階で簡単なすぐになり得るような芸術にはこういう段階は決してない。難しい芸術になればなるほどこの段階が多くなる。書道は東洋芸術の真髄で三千年からの歴史を持っている最も崇高なる芸術であるから、この段階は何度もやってくる。そのたびごとに棒を折ってしまったら到底上達は望まれない。この段階を上れば屹度その向こうには光明が輝いていることを忘れてはならない。書道の妙諦というものは三年や五年や十年で覚(さと)れるものではない。一生の研究も亦及ばないかもしれぬ。筆者にも勿論わかっていない、只必ず到達しうるものと信じて精進しているのみである。
諸君も亦此の心がけで勉励されんことを望む次第である。
顔回・・・顔淵のこと、孔子の門人、優れた高弟だが若くして死に孔子を悲しませたという
書学者の口から折々聞くことであるが、「吾輩は昨今ちっとも上達しない、いっそ手習いをやめようかと思う、どうしたものだろう」と。孔門の亜聖顔回と雖も「罷(や)めんと欲して能わず」と嘆息した位だから、折々は學を罷め様と思ったことはあるに違いない。況んや凡人がその上達の見えないためいっそうもう罷め様かと思うことくらいの事は当然である。
凡ての如何なる芸術でも稽古のし初めには、なんだか一足飛びに上手くなったような気がするものでそれが段々稽古するにつれてどうもうまくならない、寧ろ下手になったような気がしてくる。誰でも同じくこの嫌気がでる時代に屹度遭遇する。これは進歩の一段階で簡単なすぐになり得るような芸術にはこういう段階は決してない。難しい芸術になればなるほどこの段階が多くなる。書道は東洋芸術の真髄で三千年からの歴史を持っている最も崇高なる芸術であるから、この段階は何度もやってくる。そのたびごとに棒を折ってしまったら到底上達は望まれない。この段階を上れば屹度その向こうには光明が輝いていることを忘れてはならない。書道の妙諦というものは三年や五年や十年で覚(さと)れるものではない。一生の研究も亦及ばないかもしれぬ。筆者にも勿論わかっていない、只必ず到達しうるものと信じて精進しているのみである。
諸君も亦此の心がけで勉励されんことを望む次第である。
顔回・・・顔淵のこと、孔子の門人、優れた高弟だが若くして死に孔子を悲しませたという
2016年2月15日月曜日
雅支部通信 第76号・・・すす掃きや 柱に残る背くらべ(H26.1.1)
あけましておめでとうございます。
ことしは十二支でいえば七番目、午(ゴ・うま)の年です。動物では馬が充てられています。十二支でいえば後午(コウゴ、きのえうま)の年です。
馬はご存知のように人間の生活と昔から大きく拘わってきました。したがって、用語・故事・ことわざも多いようです。
「当て馬」「生き馬」「絵馬」「竹馬の友」「馬脚」「馬齢」「馬力」「野次馬」「尻馬」「午睡」「初午」「午陰」など、更に故事・ことわざでは「馬の背を分ける」=夕立がここに降って、あそこには降らないこと。「馬によってみよ、人には添うてみよ」=良馬であるかどうか実際に乗ってみないとわからない、人も共に暮らしてみなければ人柄はわからない、実際に物事は経験してみないとわからないということ。
最後に私が好きな故事を少し詳しく載せてこの項を終わります。
「人間万事塞翁が馬」=淮南子(えなんじ・人間訓)にある故事に基づく、国境の塞近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の持ち馬が胡の国に逃げた。気の毒がる人に老人は「これが幸福のもととなる」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。これを福として、祝いを述べに来た人に老人は「これが不幸の基となる」と言った。老人の家には良馬が恵まれたが今度はその子が馬から落ちて足の骨を折ってしまった。これを見舞った人に老人は「これが幸福の基となる」といった。
一年後胡軍が大挙して侵入し、若者の殆どが戦死した。しかし、足を骨折したためにその子は戦わずに済んだので親子ともども無事であったという。すなわち災いがいつ福の原因になるかかわらず、福がいつ災いの原因になるかわからない。人間なにが幸せで何が不幸かわからない、いたずらに一喜一憂しても始まらないことのたとえ。
○朝日新聞社が主催する第58回現代書道二十人展を6日、会員5名のみなさんとともに見てきました。私は4年ぶりの観覧です。この展は、昭和32年に第1回展を開いて58年目、当時の代表的展覧会というと日展と毎日展だけです。このふたつは公募展として戦後の書壇の復興に大きな役割を果たしてきましたが、現代書道二十人展はその時代を代表する書家を20人だけ選んで展示するという非常に難しい人選のなかで生まれた質の高い展覧会です。
意外なことにこの展覧会開催の発端は上野松坂屋にあったということです。(田宮文平説)。松坂屋が新春に相応な催事をさがして書家の柳田泰雲に相談、協力は朝日新聞社にお願いしたいということで話は進んだようです。とは言っても種々ある流派の中から20人だけ選ぶというのは至難のことであったでしょう。書壇側からはどう厳選しても30人になるということで朝日新聞社に持ち掛けたが朝日側は譲らず、長老支配の印象を与えるので芸術院会員は外してほしい。日展中心ではなく在野をなるべく加えてほしい。との逆提案が示されてしまい多分相当苦しんでの20人展になったと思います。
ことしは十二支でいえば七番目、午(ゴ・うま)の年です。動物では馬が充てられています。十二支でいえば後午(コウゴ、きのえうま)の年です。
馬はご存知のように人間の生活と昔から大きく拘わってきました。したがって、用語・故事・ことわざも多いようです。
「当て馬」「生き馬」「絵馬」「竹馬の友」「馬脚」「馬齢」「馬力」「野次馬」「尻馬」「午睡」「初午」「午陰」など、更に故事・ことわざでは「馬の背を分ける」=夕立がここに降って、あそこには降らないこと。「馬によってみよ、人には添うてみよ」=良馬であるかどうか実際に乗ってみないとわからない、人も共に暮らしてみなければ人柄はわからない、実際に物事は経験してみないとわからないということ。
最後に私が好きな故事を少し詳しく載せてこの項を終わります。
「人間万事塞翁が馬」=淮南子(えなんじ・人間訓)にある故事に基づく、国境の塞近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の持ち馬が胡の国に逃げた。気の毒がる人に老人は「これが幸福のもととなる」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。これを福として、祝いを述べに来た人に老人は「これが不幸の基となる」と言った。老人の家には良馬が恵まれたが今度はその子が馬から落ちて足の骨を折ってしまった。これを見舞った人に老人は「これが幸福の基となる」といった。
一年後胡軍が大挙して侵入し、若者の殆どが戦死した。しかし、足を骨折したためにその子は戦わずに済んだので親子ともども無事であったという。すなわち災いがいつ福の原因になるかかわらず、福がいつ災いの原因になるかわからない。人間なにが幸せで何が不幸かわからない、いたずらに一喜一憂しても始まらないことのたとえ。
○朝日新聞社が主催する第58回現代書道二十人展を6日、会員5名のみなさんとともに見てきました。私は4年ぶりの観覧です。この展は、昭和32年に第1回展を開いて58年目、当時の代表的展覧会というと日展と毎日展だけです。このふたつは公募展として戦後の書壇の復興に大きな役割を果たしてきましたが、現代書道二十人展はその時代を代表する書家を20人だけ選んで展示するという非常に難しい人選のなかで生まれた質の高い展覧会です。
意外なことにこの展覧会開催の発端は上野松坂屋にあったということです。(田宮文平説)。松坂屋が新春に相応な催事をさがして書家の柳田泰雲に相談、協力は朝日新聞社にお願いしたいということで話は進んだようです。とは言っても種々ある流派の中から20人だけ選ぶというのは至難のことであったでしょう。書壇側からはどう厳選しても30人になるということで朝日新聞社に持ち掛けたが朝日側は譲らず、長老支配の印象を与えるので芸術院会員は外してほしい。日展中心ではなく在野をなるべく加えてほしい。との逆提案が示されてしまい多分相当苦しんでの20人展になったと思います。
2016年2月14日日曜日
雅支部通信 第75号・・・牡蠣(かき)剥ぎや するんとたぎる湯の中へ(H25.12.1)
中国の書の歴史・・・その15
秦代の後半から漢代に書かれた木簡資料や帛書の文字資料をみると、古隷・八分・早書きの草書というものから、章草や草書とみられるもの、また行書らしい書体のものまであって混沌とした状態です。
それが東晋の時代になるとはっきりした行書・草書・章草の区別がつくものが現れてきます。
楷書らしい書体の確立は、五胡十六国時代の「老女人経(ろうにょにんきょう)=写経=後漢の書という説もあり」あたりからであるというのがひとつの説です。今後の発掘によって明らかになる部分があるにしても楷書は草書や行書よりも遅れて生まれてきたことには変わりないと思います。
さて、だいぶ回り道をしましたが王羲之についてふれてみます。
王羲之は琅琊(ろうや)の名族王氏の出身で字を逸少(いっしよう)といい、かつて右軍将軍という官についたことがあるので、世に王右軍(おおゆうぐん)と呼ばれています。
生卒年月についてはいろいろ異説もありますが、西晋の永嘉元年(307)に生まれ、東晋の興寧3年(365)、59歳で没したというのがほぼ正確に近いものとされています。
かれは45歳の時右軍将軍、会稽内史(かいけいないし)となり、任地に赴きました。
この会稽というところは春秋時代の越(えつ)の古都で、今の浙江省紹興市にあたり、美しい山水の風景に恵まれた土地でもあります。彼はここに在任すること4年、そのうちの永和9年(353)の3月3日、この地において劇跡と称せられる「蘭亭序」を書いています。
説によれば使用筆は鼠髭筆(そしゅひつ)、用紙は蚕繭紙を使用し、一気呵成に38行324字を行草書交じりで書いたとあります。
即興の草稿であるため誤字めいたもの、脱字を後から加えたもの、書き換えた文字、異体字などがありますので蘭亭序を参考にして創作作品を創る場合は文字を書き換えるなどの注意は必要でしょう。
秦代の後半から漢代に書かれた木簡資料や帛書の文字資料をみると、古隷・八分・早書きの草書というものから、章草や草書とみられるもの、また行書らしい書体のものまであって混沌とした状態です。
それが東晋の時代になるとはっきりした行書・草書・章草の区別がつくものが現れてきます。
楷書らしい書体の確立は、五胡十六国時代の「老女人経(ろうにょにんきょう)=写経=後漢の書という説もあり」あたりからであるというのがひとつの説です。今後の発掘によって明らかになる部分があるにしても楷書は草書や行書よりも遅れて生まれてきたことには変わりないと思います。
さて、だいぶ回り道をしましたが王羲之についてふれてみます。
王羲之は琅琊(ろうや)の名族王氏の出身で字を逸少(いっしよう)といい、かつて右軍将軍という官についたことがあるので、世に王右軍(おおゆうぐん)と呼ばれています。
生卒年月についてはいろいろ異説もありますが、西晋の永嘉元年(307)に生まれ、東晋の興寧3年(365)、59歳で没したというのがほぼ正確に近いものとされています。
かれは45歳の時右軍将軍、会稽内史(かいけいないし)となり、任地に赴きました。
この会稽というところは春秋時代の越(えつ)の古都で、今の浙江省紹興市にあたり、美しい山水の風景に恵まれた土地でもあります。彼はここに在任すること4年、そのうちの永和9年(353)の3月3日、この地において劇跡と称せられる「蘭亭序」を書いています。
説によれば使用筆は鼠髭筆(そしゅひつ)、用紙は蚕繭紙を使用し、一気呵成に38行324字を行草書交じりで書いたとあります。
即興の草稿であるため誤字めいたもの、脱字を後から加えたもの、書き換えた文字、異体字などがありますので蘭亭序を参考にして創作作品を創る場合は文字を書き換えるなどの注意は必要でしょう。
2016年2月13日土曜日
雅支部通信 第73号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.10.1)
中国の書の歴史・・・その12
王羲之時代の到来(後漢末・三国から晋)
後漢が倒れ、魏・呉・蜀の三国時代が始まりますが50年余りで時代は王羲之の生まれた晋に代わります。
通信66号で東博で開催された「王羲之展」の内容を紹介しましたが、王羲之の書に影響をあたえた張芝、鐘繇について少し詳しく述べてみたいと思います。
張芝は後漢の人(?~193年)後漢の名臣張奐の子で宮廷から高官に推挙されますが終生仕官せず、潔白の処士として一生を過ごし、草書の名手として知られ草聖と称されました。
鐘繇は三国魏の人、魏の曹操(武帝)の信頼が厚く、文帝・明帝に仕えて建国の功臣として太傅(たいでん=官名=天子を補佐するいわゆるナンバー2)に進み、書は楷書の名手として知られています。この二人は王羲之以前の書道史を飾る能書家と言われています。
唐の孫過庭は「書譜」の冒頭で「そもそも古来より書に巧みな者として漢魏の時代では鐘繇、張芝の絶佳があり、晋代の末では王羲之・王献之の巧妙さが伝えられた」と述べ、続いて王羲之の語った言葉が引用されていますので少し長いけれど紹介してみます。
「近頃いろいろな名書を尋ねましたが、鐘繇、張芝が並外れてすぐれており、それ以外は見るに足りません。私の書を鐘繇、張芝と比べると、鐘繇には肩を並べることができ、あるいは私のほうが勝っているかもしれません。張芝の草書にはやや遅れをとるでしょう。しかし張芝は学書に励み、(池に臨んで書を学んだため)池の水が墨のように真っ黒くなったほどです。もしも私が張芝のように励んだならばひけをとることはありますまい」と。
ただ残念なことは、王羲之に大きな影響を与えた割にはこの二人はマイナーな存在です。それは二人の作品がきわめて少なく、しかもそのほとんどが疑わしいということが原因のようですが王羲之前史の中心を成した能書家として覚えておく必要はあるでしょう。
王羲之時代の到来(後漢末・三国から晋)
後漢が倒れ、魏・呉・蜀の三国時代が始まりますが50年余りで時代は王羲之の生まれた晋に代わります。
通信66号で東博で開催された「王羲之展」の内容を紹介しましたが、王羲之の書に影響をあたえた張芝、鐘繇について少し詳しく述べてみたいと思います。
張芝は後漢の人(?~193年)後漢の名臣張奐の子で宮廷から高官に推挙されますが終生仕官せず、潔白の処士として一生を過ごし、草書の名手として知られ草聖と称されました。
鐘繇は三国魏の人、魏の曹操(武帝)の信頼が厚く、文帝・明帝に仕えて建国の功臣として太傅(たいでん=官名=天子を補佐するいわゆるナンバー2)に進み、書は楷書の名手として知られています。この二人は王羲之以前の書道史を飾る能書家と言われています。
唐の孫過庭は「書譜」の冒頭で「そもそも古来より書に巧みな者として漢魏の時代では鐘繇、張芝の絶佳があり、晋代の末では王羲之・王献之の巧妙さが伝えられた」と述べ、続いて王羲之の語った言葉が引用されていますので少し長いけれど紹介してみます。
「近頃いろいろな名書を尋ねましたが、鐘繇、張芝が並外れてすぐれており、それ以外は見るに足りません。私の書を鐘繇、張芝と比べると、鐘繇には肩を並べることができ、あるいは私のほうが勝っているかもしれません。張芝の草書にはやや遅れをとるでしょう。しかし張芝は学書に励み、(池に臨んで書を学んだため)池の水が墨のように真っ黒くなったほどです。もしも私が張芝のように励んだならばひけをとることはありますまい」と。
ただ残念なことは、王羲之に大きな影響を与えた割にはこの二人はマイナーな存在です。それは二人の作品がきわめて少なく、しかもそのほとんどが疑わしいということが原因のようですが王羲之前史の中心を成した能書家として覚えておく必要はあるでしょう。
雅支部通信 第72号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.9.1)
中国の書の歴史・・・その11
漢代のその他の書として瓦当(かとう)文、塼文(せんぶん)、画像石、官印・封泥などがあります。
1.瓦当=屋根を葺くのに、平瓦をならべた接点には反面形の伏瓦をもってこれを覆います。
これは軒先に出る部分が円形(ときには反面形)になっています。この部分を瓦当といいます。
これは屋根をみるとすぐに目につく部分なので古くからいろいろな装飾が施されてきまし」た。
瓦当はすでに三代(夏・殷・周)からあったものですが、文字の使用は漢代より始まっています。
銘文は建物の性質がわかるようなものもありますが圧倒的に多いのは吉祥文字です。
「長生未央=ちょうせいみおう」「長楽無極」「千秋万歳」「延年益寿」「與天無極=よてんむきょく」
「永奉無彊=えいほうむきょう」「億年無彊」などがそれです。文字は篆書体を土台にした装飾文字
です。
2.塼=宮殿・家屋・墓・井戸・道路などの床に敷いたり壁面にはめこんだりして使われる煉瓦上のも
の。日乾煉瓦と陶製のものとがあります。銘文には吉祥文字・年号など、書体は篆・隷・草隷・章草
などさまざまです。
3.画像石=後漢時代になると立派な墳墓を造営するようになり大量の石材を用いた石造墓をつくるよ
うになりました。画像石はこの石造墓内の石壁に絵画や図像を刻したものです。画像の脇に題名の
文字が刻されています。
漢代のその他の書として瓦当(かとう)文、塼文(せんぶん)、画像石、官印・封泥などがあります。
1.瓦当=屋根を葺くのに、平瓦をならべた接点には反面形の伏瓦をもってこれを覆います。
これは軒先に出る部分が円形(ときには反面形)になっています。この部分を瓦当といいます。
これは屋根をみるとすぐに目につく部分なので古くからいろいろな装飾が施されてきまし」た。
瓦当はすでに三代(夏・殷・周)からあったものですが、文字の使用は漢代より始まっています。
銘文は建物の性質がわかるようなものもありますが圧倒的に多いのは吉祥文字です。
「長生未央=ちょうせいみおう」「長楽無極」「千秋万歳」「延年益寿」「與天無極=よてんむきょく」
「永奉無彊=えいほうむきょう」「億年無彊」などがそれです。文字は篆書体を土台にした装飾文字
です。
2.塼=宮殿・家屋・墓・井戸・道路などの床に敷いたり壁面にはめこんだりして使われる煉瓦上のも
の。日乾煉瓦と陶製のものとがあります。銘文には吉祥文字・年号など、書体は篆・隷・草隷・章草
などさまざまです。
3.画像石=後漢時代になると立派な墳墓を造営するようになり大量の石材を用いた石造墓をつくるよ
うになりました。画像石はこの石造墓内の石壁に絵画や図像を刻したものです。画像の脇に題名の
文字が刻されています。
雅支部通信 第71号・・・強気もの 有(あ)らやクチナシ香放つ(H25.8.1)
中国の書の歴史・・・その10
木簡における書体で楷書の項が残っていました。
左の図は1901年オーレル・スタインにより新疆省尼雅遺跡(しんきょうしょうにやいせき)から発見された木簡の風検です。
この検は西川寧博士が楷書の成立期を示すものとして取り上げたものです。楷書の書法、横画「三過折」、縦画に「懸針法」が使われているとしています。資料としてはわずかでありますが、楷書の成立期を探る上で貴重とされています。これが書かれたのは269年ごろと言われています。
しかし、鐘繇が書いたといわれる楷書の名品「薦季直表=せんきちょくひょう」は220年代と言われてますから楷書の成立期はまだまだ遡ることになるでしょう。
木簡における書体で楷書の項が残っていました。
左の図は1901年オーレル・スタインにより新疆省尼雅遺跡(しんきょうしょうにやいせき)から発見された木簡の風検です。
この検は西川寧博士が楷書の成立期を示すものとして取り上げたものです。楷書の書法、横画「三過折」、縦画に「懸針法」が使われているとしています。資料としてはわずかでありますが、楷書の成立期を探る上で貴重とされています。これが書かれたのは269年ごろと言われています。
しかし、鐘繇が書いたといわれる楷書の名品「薦季直表=せんきちょくひょう」は220年代と言われてますから楷書の成立期はまだまだ遡ることになるでしょう。
雅支部通信 第70号・・・健診を 終えていずるや あげ雲雀(H25.7.1)
春の東京国立博物館「王羲之展」はまだ記憶に新しいところですが、来る7月13日(土)から9月8日(日)まで同じく東博にて特別展「和様の書」が開催されます。
「和様」とは文字通り日本風を意味する言葉ですが、書のほか建築の様式などにも使われます。
日本で漢字がみられる最古のものは金印「漢委奴国王(かんのなのぬこくおう)で、西暦57年ごろのものと言われています。日本で最古に書かれた漢字は熊本の江田古墳から出た太刀の銘文です。
肉筆で残る最も古い字は聖徳太子が書いた「法華義疏(ほっけぎそ・ほっけぎしょともいう)」=法華経の注釈書です。
さて、奈良時代になると唐との交流が盛んになり、書では光明皇后の「楽毅論」に代表されるように王羲之の系譜にたつものが主流でした。官立の写経所が設けられて、漢訳仏典の書写が盛んになりました。
平安時代になると唐が滅亡し、遣唐使も中止になりましたが初期には三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の活躍で漢詩・漢文・漢字文化は中国風そのままでした。しかし男性中心であった平安時代も、陰で女性たちがから時代の万葉期に芽生えた万葉仮名から平安仮名へと新分野を作り出し、女性社会の中で文学や芸術を反映させてきました。
「和様の書」は平安中期以降の中国書風と相対立する日本独自の書風全般をさして呼びます。
女性の弱い社会的地位は、男性社会の漢字・漢文を使わせてもらえず、文字通り「女手(おんなで)」「仮り名」とよばれるかな文字にすべてをかけて、ひそかに、しかし滔々と蕩蕩と平安かなの名作・高野切古今集、関戸本古今集・寸松庵色紙、継色紙などを生み、誰が書いたかわからないまま伝えられてきました。
典雅なき気品と優麗なリズムを誇るこれら日本の名品は日本の書道史上でも最高の傑作と呼ばれてもよいでしょう。男が名を秘めてかな文字を書き始めたという時期もあったようです。
鎌倉から室町時代は獰猛な武士集団がせめぎあう時代、公家に伝わる流儀書道(和様)は苦悶にあふれ生気を失いわずかに禅僧の道元、一休らがパンチのきいた書を残しています。
江戸時代は内容より形式を重んじ、身分と地位を守る社会、幕府の締め付けも強く、文化や芸術の分野でも独創より伝承を重視した時代でした。書では幕府公認の御家流(和様書の一流派だが没個性書といわれる)でなくてはならず、新生面は開けませんでしたが地方ではやはり禅僧、越後の良寛・駿府の白隠・博多の仙崖などが個性的な美を開花させていました。
総じて江戸時代は儒教的な教養に支えられた文人趣味流行の時代と言えるでしょう。大きな変化もなく明治になっていきました。
「和様」とは文字通り日本風を意味する言葉ですが、書のほか建築の様式などにも使われます。
日本で漢字がみられる最古のものは金印「漢委奴国王(かんのなのぬこくおう)で、西暦57年ごろのものと言われています。日本で最古に書かれた漢字は熊本の江田古墳から出た太刀の銘文です。
肉筆で残る最も古い字は聖徳太子が書いた「法華義疏(ほっけぎそ・ほっけぎしょともいう)」=法華経の注釈書です。
さて、奈良時代になると唐との交流が盛んになり、書では光明皇后の「楽毅論」に代表されるように王羲之の系譜にたつものが主流でした。官立の写経所が設けられて、漢訳仏典の書写が盛んになりました。
平安時代になると唐が滅亡し、遣唐使も中止になりましたが初期には三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の活躍で漢詩・漢文・漢字文化は中国風そのままでした。しかし男性中心であった平安時代も、陰で女性たちがから時代の万葉期に芽生えた万葉仮名から平安仮名へと新分野を作り出し、女性社会の中で文学や芸術を反映させてきました。
「和様の書」は平安中期以降の中国書風と相対立する日本独自の書風全般をさして呼びます。
女性の弱い社会的地位は、男性社会の漢字・漢文を使わせてもらえず、文字通り「女手(おんなで)」「仮り名」とよばれるかな文字にすべてをかけて、ひそかに、しかし滔々と蕩蕩と平安かなの名作・高野切古今集、関戸本古今集・寸松庵色紙、継色紙などを生み、誰が書いたかわからないまま伝えられてきました。
典雅なき気品と優麗なリズムを誇るこれら日本の名品は日本の書道史上でも最高の傑作と呼ばれてもよいでしょう。男が名を秘めてかな文字を書き始めたという時期もあったようです。
鎌倉から室町時代は獰猛な武士集団がせめぎあう時代、公家に伝わる流儀書道(和様)は苦悶にあふれ生気を失いわずかに禅僧の道元、一休らがパンチのきいた書を残しています。
江戸時代は内容より形式を重んじ、身分と地位を守る社会、幕府の締め付けも強く、文化や芸術の分野でも独創より伝承を重視した時代でした。書では幕府公認の御家流(和様書の一流派だが没個性書といわれる)でなくてはならず、新生面は開けませんでしたが地方ではやはり禅僧、越後の良寛・駿府の白隠・博多の仙崖などが個性的な美を開花させていました。
総じて江戸時代は儒教的な教養に支えられた文人趣味流行の時代と言えるでしょう。大きな変化もなく明治になっていきました。
2016年2月11日木曜日
雅支部通信 第69号・・・刈草の 広く匂うや徳一廟(H25.6.1)
中国の書の歴史・・・その9
今回は木簡に見られる各種の書体のうち行書、草書です。
①草書
これは、1930年スウェン・ヘディンを中心とするスウェーデンと中国の合同探検隊の手によって、甘粛省北部より発見された有名な木簡です。
書写年代は、永元(93年)と簡に記されていることからして、当時の草書体を偲ぶには格好の資料です。木簡中の「今」「年」などに見られる大胆な縦画は長文の中にあって自然とアクセントを入れたりしてなかなか心憎いものがあります。
②行書
タクラマカン砂漠の東辺に位置した都市、楼蘭の遺跡で、ヘディンにより発見されたこの晋代の木簡の行書は、漢代の隷書を中心とした草、行書より更に洗練されています。このことは、流通書体として草、行書が頻繁に使用され、定着期に入ったことを示していると解釈できます。
起筆に力を入れず、スッと引き、はっきりとした収筆を見せている点などは当時の流通書体を示す特徴と言えます。
今回は木簡に見られる各種の書体のうち行書、草書です。
①草書
これは、1930年スウェン・ヘディンを中心とするスウェーデンと中国の合同探検隊の手によって、甘粛省北部より発見された有名な木簡です。
書写年代は、永元(93年)と簡に記されていることからして、当時の草書体を偲ぶには格好の資料です。木簡中の「今」「年」などに見られる大胆な縦画は長文の中にあって自然とアクセントを入れたりしてなかなか心憎いものがあります。
②行書
タクラマカン砂漠の東辺に位置した都市、楼蘭の遺跡で、ヘディンにより発見されたこの晋代の木簡の行書は、漢代の隷書を中心とした草、行書より更に洗練されています。このことは、流通書体として草、行書が頻繁に使用され、定着期に入ったことを示していると解釈できます。
起筆に力を入れず、スッと引き、はっきりとした収筆を見せている点などは当時の流通書体を示す特徴と言えます。
雅支部通信 第68号・・・畦道を 振り向きもせず雉子の去る(H25.5.1)
雅支部通信 第67号・・・あさり蒸す めのこ手際のよき母に(H25.4.1)
雅支部通信 第66号・・・連載に 追いつかぬまま二月過ぐ(H25.3.1)
3月3日まで国立博物館で開催されている書聖・王羲之展を見てきました。
この種の展覧会は、普段、印刷物や写真で見ているだけの法帖類や拓本などが、原拓、真跡で見られる貴重な機会です。肉筆作品や原拓本に数多く触れることで刺激を受け、見る目を肥やし意欲を湧かせてくれるチャンスでもありますのでなるべく見に行くようにしております。
今回は、新発見された「大報帖」が展示されるという話題性もありましたが、王羲之の書が出来上がるまでの文字の変遷や真跡がすでに残されていない王羲之の書がどんな形で伝えられ、残されてきたかを「行穣帖」を手本にして「双鉤填墨」(そうこうてんぼく)という模写方式を中心にして語られ、王羲之の書ができあがるまでの時代を追っての書の変遷、筆聖と呼ばれるに至った経過、その後長きにわたって書の世界に与えた影響、宋・元・明時代の肉筆作新、更に清朝に入って碑学派の台頭でやや王羲之神話が崩れかかった時代の碑学派の作品。そして王羲之の書が再評価されてきたことまでが順を追って展示されており、清朝末期、最後の文人と言われた呉昌碩までの計163点の作品が時代を追って飾られてありました。
では、王羲之は一体どんな書の勉強をしてきたのでしょうか。
今まで通信で再三紹介してきましたが現在確認されている最古の文字は甲骨文です。続いて金文。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が全国各地で用いられていた文字を統一して作り上げたのが小篆、しかしこれらの書体はあまりにも繁雑で書写には時間がかかる。そこで生まれてきたのが通行体として実用の書、すなわち隷書、草書、行書などです。楷書の後漢の晩期に隷書が次第に俗体化し転化する中で生まれ、魏晋に至って盛んになったもので、五書体中でもっとも遅い時期に発生しています。
書体の変遷を長い目で見ると、一つの書体が成熟期を迎えると、それはまた別の簡略化の書体へと新たな展開を生じ、次の定型化へと進んでいますがこのようなプロセスを経ながらも、いつの時代にも必要に応じて公用体・準公用体・実用通行体が並行して用いられ、それぞれお用途に応じて使い分けられていたことがわかります。
ここで登場するのが通行体の代表ともいうべき木簡・竹簡(簡牘という)です。
簡牘の中でも特に竹は記録を残すために甲骨文が生まれた殷代よりももっと前、いわるゆ符号を記した時代から使われていたことが明らかになっています。さらに簡牘の中には、篆書、隷書、草書、行書、楷書など全ての書体に進むべき要素を帯びた特徴をもったものがあります。そして八文隷書の公用体に相対して簡牘の文字は実用通行体としての用途に使われていました。
話を元に戻しますが王羲之はこれら、この時代までのすべての書体を学んだと思われます。
また、後漢の早聖と呼ばれた張芝(ちょうし)、後漢から魏に生きた楷書の名手として名高い鐘繇(しょうよう)を王羲之は尊敬し学んだことは書論としても有名な書譜に孫過庭が紹介しているところです。
端正な王羲之の字を見ていると簡牘まで含めた学んだイメージが湧きずらいと思いますが、王羲之が25歳のころ書いたといわれる「姨母帖」にはその筆法が見て取れます。
王羲之が木簡、残紙を学んだことを知ることは王羲之の線質を学ぶ上で重要なことです。
この種の展覧会は、普段、印刷物や写真で見ているだけの法帖類や拓本などが、原拓、真跡で見られる貴重な機会です。肉筆作品や原拓本に数多く触れることで刺激を受け、見る目を肥やし意欲を湧かせてくれるチャンスでもありますのでなるべく見に行くようにしております。
今回は、新発見された「大報帖」が展示されるという話題性もありましたが、王羲之の書が出来上がるまでの文字の変遷や真跡がすでに残されていない王羲之の書がどんな形で伝えられ、残されてきたかを「行穣帖」を手本にして「双鉤填墨」(そうこうてんぼく)という模写方式を中心にして語られ、王羲之の書ができあがるまでの時代を追っての書の変遷、筆聖と呼ばれるに至った経過、その後長きにわたって書の世界に与えた影響、宋・元・明時代の肉筆作新、更に清朝に入って碑学派の台頭でやや王羲之神話が崩れかかった時代の碑学派の作品。そして王羲之の書が再評価されてきたことまでが順を追って展示されており、清朝末期、最後の文人と言われた呉昌碩までの計163点の作品が時代を追って飾られてありました。
では、王羲之は一体どんな書の勉強をしてきたのでしょうか。
今まで通信で再三紹介してきましたが現在確認されている最古の文字は甲骨文です。続いて金文。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が全国各地で用いられていた文字を統一して作り上げたのが小篆、しかしこれらの書体はあまりにも繁雑で書写には時間がかかる。そこで生まれてきたのが通行体として実用の書、すなわち隷書、草書、行書などです。楷書の後漢の晩期に隷書が次第に俗体化し転化する中で生まれ、魏晋に至って盛んになったもので、五書体中でもっとも遅い時期に発生しています。
書体の変遷を長い目で見ると、一つの書体が成熟期を迎えると、それはまた別の簡略化の書体へと新たな展開を生じ、次の定型化へと進んでいますがこのようなプロセスを経ながらも、いつの時代にも必要に応じて公用体・準公用体・実用通行体が並行して用いられ、それぞれお用途に応じて使い分けられていたことがわかります。
ここで登場するのが通行体の代表ともいうべき木簡・竹簡(簡牘という)です。
簡牘の中でも特に竹は記録を残すために甲骨文が生まれた殷代よりももっと前、いわるゆ符号を記した時代から使われていたことが明らかになっています。さらに簡牘の中には、篆書、隷書、草書、行書、楷書など全ての書体に進むべき要素を帯びた特徴をもったものがあります。そして八文隷書の公用体に相対して簡牘の文字は実用通行体としての用途に使われていました。
話を元に戻しますが王羲之はこれら、この時代までのすべての書体を学んだと思われます。
また、後漢の早聖と呼ばれた張芝(ちょうし)、後漢から魏に生きた楷書の名手として名高い鐘繇(しょうよう)を王羲之は尊敬し学んだことは書論としても有名な書譜に孫過庭が紹介しているところです。
端正な王羲之の字を見ていると簡牘まで含めた学んだイメージが湧きずらいと思いますが、王羲之が25歳のころ書いたといわれる「姨母帖」にはその筆法が見て取れます。
王羲之が木簡、残紙を学んだことを知ることは王羲之の線質を学ぶ上で重要なことです。
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