2016年3月12日土曜日

雅塾通信 第80号・・・春の昼、軍港クルーズの客となる(H26.6.1)

中国の書の歴史・・・その17
 王羲之時代に続く(時代は一部重なるが)書と言えば南北朝の碑や摩崖、墓誌名に書かれた書体でしょう。この時代の書の流れは大きく二つに大別できます。
 一つは三国時代以降急速に普及してきた楷行草書、王羲之が確立した美しく雅な書体にさらに力強さを加えた北魏の書が加わってきたこと、二つ目は前代からの主流であった篆隷体は衰退し、辺境な地においてのみ残されてしまったことです。
 これは文字の普及とともに必然的な流れですが、戦乱に明け暮れた五胡十六国時代から写経が盛んになってきたことも大きく影響しています。写経は楷書が主流でした。
 南北朝時代に残された造像記や碑はおびただしい数です。
 造像記は仏教崇拝の年から作られたもので、石窟をほり、石仏をつくり、その仏像を刻した由来を記した文字を刻したものです。
 敦煌の千仏洞、山西省大同の雲崗(うんこう)石窟、洛陽の龍門石窟が中国の三大石窟です。
 代表的な造像記の文字としては牛橛(ぎゅうけつ)と始平公を、碑としては張猛龍碑(ちょうもうりょうひ)、鄭義下碑(ていぎかひ)をそれぞれ載せておきます。

2016年3月6日日曜日

雅塾通信 第79号・・・カルチャーに並ぶ白髪春二番(H26.5.1)

 今夏、台湾(台北)の故宮博物院の名品230点あまりが東京国立博物館で出品展示されます。
書は東博では31点あります。
 その中で個人的に特に見てみたいものは、孫過庭の「書譜」、趙孟頫(ちょうもうふ)の「赤壁賦」「閑居賦」、蘇軾「黄州寒食詩巻」、王羲之「遠宦帖(えんかんじょう)=手紙文」などです。
 ご存知と思いますが、故宮博物院は二つあります。一つは北京市天安門広場の北側に建つ紫禁城、もう一つは台北市郊外にある故宮博物院です。ちょっと歴史を紐解いてみます。

 紫禁城は15世紀のはじめに明の永楽帝が造営し、辛亥革命で清が滅びるまで、約490年にわたる二代王朝の居城でした。
 1924年11月、中国最後の皇帝・溥儀が紫禁城を去った翌年、名称を故宮博物院と改めています。
中国の歴代皇帝は、文物を収集することに熱心でした。
それは単に興味があったという以上にそれら歴史が生み出した文物を所有することで、自らが中華文明の正当な継承者であることを実感し証明したかったのでしょう。多くの民族が入れ替わり立ち代わり皇帝の座に就いた中国の歴史の中にあってはそれは権力の象徴として必要不可欠のものだったと思います。
 当時はおよそ200万点にのぼる文物が収蔵されていたといわれています。
 しかし、紫禁城の宝物は、清王朝に取って代わった国民党とあらたに興った毛沢東ひきいる中国共産党との戦いによって流転を余儀なくされました。
 第二次世界大戦後に熾烈化した国共内線のさなか、それらの宝物は重慶、昆明、南京などの都市を転々とし、ついに戦いの結果として蒋介石率いる国民党の手で台湾へ運ばれました。
 不幸な歴史によって、皇帝のコレクションは二つの都市に離れ離れになってしまったのです。
 現在、北京の故宮博物院には約百万点、台北の故宮博物院には約七十万点の文物が収蔵されています。
 呼吸は、二か所にわかれて存在することになりましたが、ほかの博物館には観られない独自性があります。故宮博物院が所蔵している文物はすべて自分たちの祖先が作り出し、伝えてきたいわば家宝のようなものです。文明八勝以来、子々孫々が守り通してきた自前の文化の結晶です。他国の文物を多く抱え目玉にしている有名博物館が多い中でこれは世界に類を見ない博物館として位置を保っています。

2016年2月21日日曜日

雅支部通信 第78号・・・寒暖の めまぐるしさや春半ば(H26.4.1)

中国の書の歴史・・・その16
 通信75号で蘭亭序の文章には即興の草稿であるため誤字めいたもの、異体字等々があると書きましたが「墨」誌、王羲之特集号の中に紹介されている源川源鋒二松学舎大教授の「蘭亭序の中の異体字」を参考に抜粋します。

 「禾偏に契」の字=禾偏の「契」の字はない。漢隷には示偏を禾偏に作った例はままある。王羲之はこれによった。
「契」=刀部分に点を加えているが点は不要である。これも漢隷に典拠している。
「峻領」=しゅんれい、「高い山」という意味なので、領には山冠が必要である。しかし漢隷の世界では「領」を「嶺」とみなしていた。今日、蘭亭序を創作で発表するなら領字は嶺字で書くべきである。
「攬」=この字は覧が正しい。避諱(ひき=死者の生前の本名を避ける)の風によって手偏の字に変えた「覧」字でないと「みる」とは読めない。

以上のように作品を作る際は誤字には十分注意を払わなければいけまあせんが、これがなかなか難しい。今使われている常用漢字は2,136字、歴代辞書に収められている字の数は、漢代の<説文解字>で約9,000字、南朝<玉篇>約20,000字、宋代<類篇>約31,000字、明代<字彙=字書>約33,000字、清朝<康熙字典>約46,000字、民国<中華大字典>約48,000字、中華人民共和国<漢語大字典>約54,000字、<中華字海>約85,000字とあります。

 漢字は知らない字が圧倒的に多いと思います。したがってひとつの作品を作る場合は丹念に字書を調べることが大事です。特に草書作品を書く場合は注意が必要です。
 北田岳洋先生が生前、「明代の草体は使わないように」と私たち初学者を今諫めた意味がこの頃ようやくわかってきたような気がします。

雅支部通信 第77号・・・熱き燗 はや後輩の古希の宴(H26.2.1)

昭和12年の漱雲誌二月号に掲載された北田岳洋先生(当時35歳)の巻頭言を紹介します。

 書学者の口から折々聞くことであるが、「吾輩は昨今ちっとも上達しない、いっそ手習いをやめようかと思う、どうしたものだろう」と。孔門の亜聖顔回と雖も「罷(や)めんと欲して能わず」と嘆息した位だから、折々は學を罷め様と思ったことはあるに違いない。況んや凡人がその上達の見えないためいっそうもう罷め様かと思うことくらいの事は当然である。
 凡ての如何なる芸術でも稽古のし初めには、なんだか一足飛びに上手くなったような気がするものでそれが段々稽古するにつれてどうもうまくならない、寧ろ下手になったような気がしてくる。誰でも同じくこの嫌気がでる時代に屹度遭遇する。これは進歩の一段階で簡単なすぐになり得るような芸術にはこういう段階は決してない。難しい芸術になればなるほどこの段階が多くなる。書道は東洋芸術の真髄で三千年からの歴史を持っている最も崇高なる芸術であるから、この段階は何度もやってくる。そのたびごとに棒を折ってしまったら到底上達は望まれない。この段階を上れば屹度その向こうには光明が輝いていることを忘れてはならない。書道の妙諦というものは三年や五年や十年で覚(さと)れるものではない。一生の研究も亦及ばないかもしれぬ。筆者にも勿論わかっていない、只必ず到達しうるものと信じて精進しているのみである。
 諸君も亦此の心がけで勉励されんことを望む次第である。

顔回・・・顔淵のこと、孔子の門人、優れた高弟だが若くして死に孔子を悲しませたという

2016年2月15日月曜日

雅支部通信 第76号・・・すす掃きや 柱に残る背くらべ(H26.1.1)

あけましておめでとうございます。
 ことしは十二支でいえば七番目、午(ゴ・うま)の年です。動物では馬が充てられています。十二支でいえば後午(コウゴ、きのえうま)の年です。
 馬はご存知のように人間の生活と昔から大きく拘わってきました。したがって、用語・故事・ことわざも多いようです。
 「当て馬」「生き馬」「絵馬」「竹馬の友」「馬脚」「馬齢」「馬力」「野次馬」「尻馬」「午睡」「初午」「午陰」など、更に故事・ことわざでは「馬の背を分ける」=夕立がここに降って、あそこには降らないこと。「馬によってみよ、人には添うてみよ」=良馬であるかどうか実際に乗ってみないとわからない、人も共に暮らしてみなければ人柄はわからない、実際に物事は経験してみないとわからないということ。
 最後に私が好きな故事を少し詳しく載せてこの項を終わります。
 「人間万事塞翁が馬」=淮南子(えなんじ・人間訓)にある故事に基づく、国境の塞近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の持ち馬が胡の国に逃げた。気の毒がる人に老人は「これが幸福のもととなる」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬を連れて戻ってきた。これを福として、祝いを述べに来た人に老人は「これが不幸の基となる」と言った。老人の家には良馬が恵まれたが今度はその子が馬から落ちて足の骨を折ってしまった。これを見舞った人に老人は「これが幸福の基となる」といった。
 一年後胡軍が大挙して侵入し、若者の殆どが戦死した。しかし、足を骨折したためにその子は戦わずに済んだので親子ともども無事であったという。すなわち災いがいつ福の原因になるかかわらず、福がいつ災いの原因になるかわからない。人間なにが幸せで何が不幸かわからない、いたずらに一喜一憂しても始まらないことのたとえ。

 ○朝日新聞社が主催する第58回現代書道二十人展を6日、会員5名のみなさんとともに見てきました。私は4年ぶりの観覧です。この展は、昭和32年に第1回展を開いて58年目、当時の代表的展覧会というと日展と毎日展だけです。このふたつは公募展として戦後の書壇の復興に大きな役割を果たしてきましたが、現代書道二十人展はその時代を代表する書家を20人だけ選んで展示するという非常に難しい人選のなかで生まれた質の高い展覧会です。
 意外なことにこの展覧会開催の発端は上野松坂屋にあったということです。(田宮文平説)。松坂屋が新春に相応な催事をさがして書家の柳田泰雲に相談、協力は朝日新聞社にお願いしたいということで話は進んだようです。とは言っても種々ある流派の中から20人だけ選ぶというのは至難のことであったでしょう。書壇側からはどう厳選しても30人になるということで朝日新聞社に持ち掛けたが朝日側は譲らず、長老支配の印象を与えるので芸術院会員は外してほしい。日展中心ではなく在野をなるべく加えてほしい。との逆提案が示されてしまい多分相当苦しんでの20人展になったと思います。

2016年2月14日日曜日

雅支部通信 第75号・・・牡蠣(かき)剥ぎや するんとたぎる湯の中へ(H25.12.1)

中国の書の歴史・・・その15
 秦代の後半から漢代に書かれた木簡資料や帛書の文字資料をみると、古隷・八分・早書きの草書というものから、章草や草書とみられるもの、また行書らしい書体のものまであって混沌とした状態です。
 それが東晋の時代になるとはっきりした行書・草書・章草の区別がつくものが現れてきます。
 楷書らしい書体の確立は、五胡十六国時代の「老女人経(ろうにょにんきょう)=写経=後漢の書という説もあり」あたりからであるというのがひとつの説です。今後の発掘によって明らかになる部分があるにしても楷書は草書や行書よりも遅れて生まれてきたことには変わりないと思います。
 さて、だいぶ回り道をしましたが王羲之についてふれてみます。
 王羲之は琅琊(ろうや)の名族王氏の出身で字を逸少(いっしよう)といい、かつて右軍将軍という官についたことがあるので、世に王右軍(おおゆうぐん)と呼ばれています。
 生卒年月についてはいろいろ異説もありますが、西晋の永嘉元年(307)に生まれ、東晋の興寧3年(365)、59歳で没したというのがほぼ正確に近いものとされています。
 かれは45歳の時右軍将軍、会稽内史(かいけいないし)となり、任地に赴きました。
 この会稽というところは春秋時代の越(えつ)の古都で、今の浙江省紹興市にあたり、美しい山水の風景に恵まれた土地でもあります。彼はここに在任すること4年、そのうちの永和9年(353)の3月3日、この地において劇跡と称せられる「蘭亭序」を書いています。
 説によれば使用筆は鼠髭筆(そしゅひつ)、用紙は蚕繭紙を使用し、一気呵成に38行324字を行草書交じりで書いたとあります。
 即興の草稿であるため誤字めいたもの、脱字を後から加えたもの、書き換えた文字、異体字などがありますので蘭亭序を参考にして創作作品を創る場合は文字を書き換えるなどの注意は必要でしょう。

2016年2月13日土曜日

雅支部通信 第73号・・・秋の蚊といえど素肌に容赦なし(H25.10.1)

中国の書の歴史・・・その12
 王羲之時代の到来(後漢末・三国から晋)
 後漢が倒れ、魏・呉・蜀の三国時代が始まりますが50年余りで時代は王羲之の生まれた晋に代わります。
 通信66号で東博で開催された「王羲之展」の内容を紹介しましたが、王羲之の書に影響をあたえた張芝、鐘繇について少し詳しく述べてみたいと思います。
 張芝は後漢の人(?~193年)後漢の名臣張奐の子で宮廷から高官に推挙されますが終生仕官せず、潔白の処士として一生を過ごし、草書の名手として知られ草聖と称されました。
 鐘繇は三国魏の人、魏の曹操(武帝)の信頼が厚く、文帝・明帝に仕えて建国の功臣として太傅(たいでん=官名=天子を補佐するいわゆるナンバー2)に進み、書は楷書の名手として知られています。この二人は王羲之以前の書道史を飾る能書家と言われています。
 唐の孫過庭は「書譜」の冒頭で「そもそも古来より書に巧みな者として漢魏の時代では鐘繇、張芝の絶佳があり、晋代の末では王羲之・王献之の巧妙さが伝えられた」と述べ、続いて王羲之の語った言葉が引用されていますので少し長いけれど紹介してみます。
「近頃いろいろな名書を尋ねましたが、鐘繇、張芝が並外れてすぐれており、それ以外は見るに足りません。私の書を鐘繇、張芝と比べると、鐘繇には肩を並べることができ、あるいは私のほうが勝っているかもしれません。張芝の草書にはやや遅れをとるでしょう。しかし張芝は学書に励み、(池に臨んで書を学んだため)池の水が墨のように真っ黒くなったほどです。もしも私が張芝のように励んだならばひけをとることはありますまい」と。
 ただ残念なことは、王羲之に大きな影響を与えた割にはこの二人はマイナーな存在です。それは二人の作品がきわめて少なく、しかもそのほとんどが疑わしいということが原因のようですが王羲之前史の中心を成した能書家として覚えておく必要はあるでしょう。