2019年10月22日火曜日

雅書道塾通信 第139号・・・久方の朝の散歩や秋の風(R1.9.1)

 長かった梅雨が終わったとたん猛暑が続き、そろそろ雨が欲しいと思っていたら九州では集中豪雨、降雨量は1時間でひと月分の二倍の量、150ミリが降ったそうです。集中型自然災害は今まで想定外だったのでしょうか。報道される現状を見てその惨状に絶句です。

 8月は15日の終戦記念日を軸にして戦争と平和について考える特別な月です。想像をはるかに絶する犠牲の上に現在があることを鑑み、志を半ばにして亡くなった多くの人たちに思いを馳せ、想像力を働かせることが肝心です。戦争の影は知らぬ間に隣に立っているかもしれません。

 さて、漢字はいつ頃日本に入ってきたのか、の話も三回目になりました。漢字=書という見方になりますが現存している日本の書では聖徳太子が書いた「法華義疏」が最古です。それ以前のものとしては古墳から出土した剣や鏡に鋳込まれた文字が残っているだけです。
 現在、劔に刻された文字として最古のものは奈良の東大寺山古墳から出土した「東大寺山古墳出土太刀銘」です。そこには隷書体で「中平□□五月丙午造作文(支)刀百練剛上応星宿□□□」と刻されています。「中平」という年号は後漢の霊帝(184~189)の時代で後漢の王朝から二世紀末に下賜されたものと考えられていますがどういう経緯で伝わってきたかはわかっていません。
 続いて奈良県天理市から発見された「石上神宮七支刀」。これには「泰和四年(369)」の年号が記されており、百済で作られ何らかの形で日本に送られてきたと考えられています。しかし、この二つの劔に記されている文字を受け取った人が理解していたかどうか、は解明されておりません。
 その後、埼玉県のさきたま古墳群から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣銘」には「獲加多支鹵大王」「乎獲居」「辛亥年(471)」など115の文字が記されていました。この中の「獲加多支鹵大王」とは雄略天皇を指すこともわかりました。前二者とは変わった内容になってきました。更に熊本県にあった江田舟山古墳から出土した太刀には75文字が彫り込まれており銘文の最後に「書者張安」とあり、銘文は渡来人ですがこの刀を作らせる依頼をした「无利弓」や、刀工は「伊太□」と、日本人の名を漢字一字一字で表記され、文字を仮名的に使っていることも判明しました。すなわちこの頃は日本人も文字を理解し使用し始めてきたと思われます。

 次に鏡については、和歌山県の隅田神社に保管されていた「隅田八幡神社人物画像鏡」には48の文字が記されています。その中に「斯麻」「穢人今州利」と言うような人名らしき文字や「意柴沙加宮」と言った地名らしきものが記され仮名の発展を考える上での資料ともなっています。なおこの鏡に記されている「癸未年」を443年とする説と503年とする説の二つに分かれているそうです。こうして四世紀末から五世紀初めにかけて日本人が文字を使用し始めたことが確定したと考えられます。

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