2017年12月3日日曜日

雅書道塾通信 第120号・・・ひさかたの孫と散歩や冬ぬくし(H29.12.1)

 気が付けばもう12月です。今年も良きにつけ悪しきにつけいろいろなことがありました。
塾関係では、3月に行われた藤岡市民展に私を含めて6名の会員が出品しました。菅生さんが優秀賞を受賞し、これで優秀賞三度、めでたく無鑑査に推挙されました。
 10月の藤岡市文化芸術祭には三名の塾生が出品しました。この展覧会は賞がなく楽しむ気持ちで出品すると良いと思います。
 9月には藤岡市書道協会主催で研修旅行が実施され、雙葉、三葉、紫玉さんが参加し、山梨県の書道に関係の深い名所などを見学してきました。その様子は通信118号に紹介しております。
 去る11月19日第二回墨盒書道展の作品下見会が伊勢崎市の北公民館で行われました。雅・凞光・赤城・一筆・東邦の各支所から20名ほどの会員が参加しました。雅塾からは紫玉さん、三葉さんと私の三人が出席しました。作品は全体で27点集まりました。
 運営委員からの要望で中島先生と福島が寸評を依頼されました。もちろん途中経過作品ばかりですが寸評が始まると目につくところは片端から指摘していくので時間がかかります。事務局から「急いで!時間が足らない」などの注文が何度も出され、笑いを誘ったりして和気藹々の中で進められました。大雑把感は否めませんでしたがいつもと違った目での評価でそれなりの効果はあったと思います。
 それにしても他人の作品を寸評するのは難しい、書にはいろいろな表現方法があり古典の数も限りなしです。その人なりの思い入れの作品もあるわけですから一概にこうあらねばならぬと決めつける訳にはいきません。そんなことを考えながらですから歯切れの悪い感想もやむなしです。4時を回ったころには終了しました。雅塾会員の結果については練習会の時に個々にお伝えします。
 さて、終わりよければすべてよし、の気持ちで今年も余すところあと一か月、無理なく、無駄なく諦めずに締めくくって参りましょう。

2017年11月11日土曜日

雅塾通信 第119号・・・開票日オオカマリキの冷たき目(H29.11.1)

超大型台風21号は、やはり日本列島に爪痕を残し、群馬にも道路崩壊、土砂・洪水の被害を与えていきました。災害に遭われた地域の、特に年配の方が「聞いたことも見たこともない初めての経験」と語る姿に自然界は大きく変化していると思わざるを得ませんでした。
 10月6日から9日まで藤岡市の文化芸術祭が催されました。書、絵画、写真など8部門、162名の会員が出品しました。みんな一生懸命の作品で好感が持てます。会場セッティングから搬入・搬出まですべて会員がおこない和気あいあいとした雰囲気は地域のつながりも生まれ良いものです。ご苦労様でした。

 24日、知人の岩浪健一こと希夷齋氏の初個展を拝見してきました。日本橋にある「小津和紙」小津ギャラリーで篆刻・刻字を中心とした作品展です。岩浪氏の細密印はその世界では知る人ぞ知る人物です。蠅頭印(極めて微細なもの)による般若心経分刻、蘭亭序全文刻印、遊印100顆、刻字作品20点、印譜集などまさに岩浪氏の全貌を明らかにする展観で、伝統を踏まえ、ぶれないその清清しい作製態度、生き様が胸に逼り、見の覚めるような展覧会でした。

「紙がなくとも字は習える」電車に乗ってぼんやり外を眺めていたら、昔、山口先生がおっしゃっていた目習いという言葉を思い出しました。展覧会で良い字を見たりするのも勉強だし、指や棒のようなものを使ってなぞって書くのも練習、したがってどこにいても字は習えると言うことでした。
 この練習方法は昔からなされていました。いわゆる「空臨・空書」と言われるものです。古くは魏の鐘繇も取り入れていたといわれています。多忙で筆を執って書く時間が少ないため、ちょっとした暇を見つけては地面に書いたり、空に向かって書いたりしたと記録にあります。また唐の虞世南は寝床に入ってから腹に書いたとか、日本では良寛が毎朝大空に向かって腕を振るって書いたとか、近年では会津八一がステッキをもって書いたという逸話も残っています。
 本場中国では昔から書の名人たちが碑帖を臨書するのにこの方法を使ったそうです。文字通り空書によって臨書することです。しかも空臨の本来の意味は手本とする碑帖を見ないで臨書することを言うらしい。したがって自分の頭の中に自分が普段習っている碑帖の字の様子が浮かばないといけない。手本を見ないで手本の字を思い出してみる。手本を見て書いてばかりではいけない、大切なことは思い出してみる事なのです。そして空書してみる、又手本を見返す、また空書する。その繰り返しで手本の字を暗記し、手本の字が自分のものとなる。と言うのが空臨・空書の本来の目的、意義なのです。これは手本を見ないで臨書する「背臨=暗書」への準備ともなります。

2017年10月15日日曜日

雅塾通信 第118号・・・台風の予報を耳に床に入る(H29.10.1)

 藤岡市書道協会の研修旅行に参加しました。13年前当塾で訪れた大門碑林も見学しました。日曜日にも関わらず見学者は私たちだけという静けさでした。園内には雑草が目につき、碑も表面に貼られたアクリル板との境に埃が入り碑面も白くくすんで文字が確認できないところもありました。私としては4度目の訪問でしたが寂れた感じが残念でした。
 楽しみにしていたのが硯の「雨端硯本舗雨宮弥兵衛」工場見学です。
雨畑硯は今から327年前1690年(元禄三年=五代将軍徳川綱吉)に雨宮孫右衛門が作成したのが始まりとされており、現代は第十三代雨宮弥太郎が当主として引き継いでいました。当主はまだ56歳、芸大、院を卒業しており職人でありながら骨太の学者と言う風貌でした。
 実際に作硯の工程を説明しながら胸に当てた大きな独特の鑿で石を彫って見せてくれました。墨色と硯の関係や硯石の特徴などが微妙な表現で解説をしてくれ見学者の素朴な質問にも丁寧に答えてくれて好感が持てました。作業をしながら次々と興味の湧きそうな話をしてくれましたが時間が少なく話を途中で切ってしまったのが悔やまれました。
 雨畑硯・雨端硯いずれも「はまはたけん」として呼ばれていますが雨畑は地名からとった名称、雨端は「雨宮弥兵衛家」で作成された硯を呼ぶそうです。色調は三種ほどで「蒼黒」「淡青」「紫色」とあります。硯については通信の17号から29号までに小文で載せましたが、日本の硯については紹介してありませんでしたので産地をいくつか挙げておきます。主に11か所あるそうです。四つ紹介します。
★赤間石=山口県厚狭郡の赤間関の産、石は粘板岩とも擬灰岩ともいわれている。色調は
 三種ほど、赤紫、青緑、それの混合、これも江戸時代以前より発掘されていたらしい
 。紫金石とも呼ばれている。
★若田石=長崎県下県郡の若田川より産出したもの、石は千枚粘板岩であり色調は淡青黒
 色、かの紫式部が源氏物語を書写するのに用いたといわれているが定かではない。
 江戸初期以前より産出していた記録があり日本の硯石としては最良と言われている。
★玄昌石=宮城県桃生郡雄勝町の海岸より産出した。石は粘板岩で、色調は青黒を呈し
 ている。やはり江戸時代から採石されていて産出量も豊富なため硯以外にも用途がある
 。東日本大震災により甚大な被害を被っている。
★竜渓石=長野県上伊那郡の天竜川上流付近より産出。石は粘板岩で天然不定形のゴロ
 ゴロしたものが多い。色調は青黒でなかには銀砂を含んでいる。名称も伊那石・横田石
 などと六つほどある。発見されたのは江戸末期であるが世に出されたのは昭和の初めこ
 ろで天然形を活かしたものが多い。

2017年10月9日月曜日

雅塾通信 第117号・・・盆迎え 次の孫にも 丈超さる(H29.9.1)

 過ごしやすいと言っては変ですが例年に比べてじりじりとした暑さのない8月でした。もう朝夕は季節の変わり目を感じます。
 戦後72年、今夏、テレビの戦争に対する報道がとりわけ生々しかったように思います。それは米国など国外からの映像や高齢化した戦争体験者の証言によるものでしょう。これを歴史上の出来事として眺めるのではなく現代社会と照らし合わせて考えることが必要です。
 戦争の影は知らぬ間に近くに寄ってくるものです。そして理屈をつければ戦争は正しくなってしまうものです。

 さて書を習う人にとって漢字と書の歴史を学ぶ事は大切なものと常々思っていますがそんな思いにぴったりの展覧会が”漢字三千年の歴史展”でした。
 資料としての数は決して多くはありませんでしたが、甲骨文・金文・帛書・竹簡木簡などの本物を目にすることができ漢字の変遷が分かりやすく展示されていました。見ていく中で新しい発見もありました。
 甲骨文の文字は、占いが終わった後に記入したものであるということ、青銅器にある金文は彫ったものか、鋳造したものか、の疑問は今回ではっきりとしました。当時は青銅器より硬い刃物はなく、青銅器の内側の狭いところに文字を刻むことなどは不可能との説明でした。書物などで金文を紹介する文章に「金文は青銅器の内側に刻されている文字」などと解説されているものが多いため、刻した=彫った、と理解してしまいやすいようです。
 青銅器の文字は凹型がほとんどですが今回は凸型文字の青銅器がひとつありました。珍しいもので特別に依頼をして借りてきたのだそうです。凹型が多いのは文字の摩滅を防ぐためとか・・・。
 紙が発明される以前に使われていた絹に書かれた文字がありました。竹や木片書くのからみればだいぶ便利です。それは帛書と言いますが紀元前、漢の時代からすでに養蚕はあったということです。帛書は千年ぐらい保存できるといわれてますがこの帛書は二千五百年前のもの、真空パックされていますが空気に触れると粉々になってしまうそうです。
 珍しい墓誌名がありました。遣唐使として中国で客死した、「井 真成」の墓誌名です。病に侵され36歳で没したとあります。遣唐使を大事に扱っていた証明になります。碑文の中に日本という字が載っていました。当時は倭の国とか扶桑とか呼ばれるのが一般的だったらしい。
 ところで過去の中国では漢字は実際に一部の特権的階級の人たちだけのものでした。それが人民共和国になって一般人いわゆる労働者・農民など圧倒的多数の人たちに漢字文化を広げるための政策として簡体文字を作り正規な文字として取り入れました。学校教育の場で教え、公式文書、新聞雑誌、書物の印刷などに広く使って定着させてきました。更には表意文字である漢字を世界共通の表音文字に改めようとして「漢語拼音法」を文字改革の第一歩としたようですがこれはあくまで漢字に対する補助的な道具としての役割を持つことにとどまりました。ちなみにこの拼音は中国語を学ぶ時の発音記号として使われています。この簡体字は展示してありませんでした。


雅塾通信 第116号・・・久方の自転車軽し夏の風(H29.8.1)

 夏休みに入り小学校前の我が家は、静かすぎてさみしいくらい、特に朝夕は登下校生徒が見えなくてなんとなく時間の経過にメリハリがつきません。
 終戦から今年で72年目の夏を迎えました。マスメディアは例年のことながら平和に関する記事をたくさん取り上げてくれるでしょう。今年は特に・・。「秘密保護法」「安保法」「共謀罪法」の一連の法案も成立し、いよいよ憲法が政治日程に上がってきました。
未来を託す子供たちに残せるものは何か、一歩も二歩も踏み込んだ思考力が今の時代には求められています。

 7月は三つの書展を見ました。
 いずれも知人が絡んでいる書展ですが、最初に鑑賞したのは「白玄会」。故山本一聿先生が築いた会で墨像を主体としています。二年に一度の開催ですがレベルの高い臨書作品がたくさん出品されていました。その他、かな・近代詩文・漢字作品などバラエティに富んでいて見ごたえがありました。その中で墨像は三分の一くらいの数でした。
 続いては伊勢崎市の「書道協会展」、これも二年に一度の開催ですが、167名の出品でした。墨盒展の仲間である中島先生、若林さん、羽尾さん、荻原さんなどの作品もありました。
 三つめは高崎書道会の「第30回記念国際交流書展」、于右任書法で知られ、中国・台湾との交流を盛んに行っている会で、私も毎回鑑賞させてもらってます。
中国・台湾から60名、会員196名という大勢の作品が高崎シティギャラリーの第一、第二会場、それに予備室を埋め尽くしていました。
 展覧会を見にいくのは刺激を受けることが大きな目的ですが、と同時にいろいろな人に会い会話をすることも楽しみの一つです。漢字一つ書くのでも様々な表現があり、人と同じく十人十色、ただ質の高さだけは求め続けるものだと痛感しています。
 書の世界に「九生法」という言葉があります。若干抽象的ではありますが、字を書く際にその書字を生命的なものにするための条件です。その中の五つを上げてみます。
「生硯」硯は使い終わったら洗滌して乾かす。
「生水」硯に長いこと汲み置いた水を使ってはいけない。新しい水が良い。
「生墨」必要に応じて磨墨する。
「生神」気持ちを集中して気を鎮め、心をいらだたせて騒がせてはならない。
「生景」空が晴れ渡り空気も澄んでいれば、人の心ものびのびと楽しい、このような時は筆を執るのに適切である。

雅塾通信 第115号・・・父の日や久しく孫と長電話

藤岡市文化協会創立40周年記念研修旅行に参加しました。バス1台による東京見物日帰りコースです。見学場所を簡単に紹介します。
国立としては日本で最初の東京国立近代美術館は書の収蔵品はありませんでしたが藤田元嗣画伯のサイパン島玉砕の油絵は縦2メートル以上横5メートル以上あるかと思われる大作でした。その生々しさに暫く動けませんでした。脳裏から消えない一枚です。
お台場にあるグランドニッコウー東京台場の日本料理店“大志満”は入り口に、今 東光筆による「大志満」の作品が展示してありました。骨太のゆったりとした感じの良い作品でした。ちなみに全ての部屋にそれぞれの雰囲気に応じた書が展示してあるようでした。
メニューは:お小昼重と命名してあり、米・食材は良好でしたが味が極端に薄く、醤油を所望していた人もいました。加賀料理とありましたが石川県は薄味なのでしょうか。
最後に旧古河庭園を散策しました。明治の元勲:陸奥宗光の邸宅だったそうですがその後宗光の次男が古河家の養子になった時、古河家のものとなったそうです。石造りの邸宅は重厚で独特、見応えがありました。

ちなみに都立文化財庭園は9つある(浜離宮恩寵庭園・旧芝離宮恩寵公園・小石川後楽園・六義園・旧岩崎邸庭園・向島百花園・清澄庭園・旧古河庭園・殿ヶ谷戸庭園)そうです。小生はまだ4ヶ所きり見ていませんが、東京という密度の濃い大都市のなかで、自然に恵まれた貴重な空間として保存したい場所です。

2017年6月11日日曜日

雅塾通信 第114号・・・生き延びるドクダミ草の根の強さ(H29.6.1)

連休明けに例年通りニガウリの苗を4本買ってきて植えました。天候も湿りがちの日が続き水やりをすることもなくすくすくと育つのを横目に眺めていました。蔓も元気よく添え木に巻き付き始めたので苗の上に下がっているすだれを巻き上げながら近づいてみると手前から三番目の苗の葉がなんとなく元気がなさそうなのでさらに寄ってみると葉に3つの大きな穴があいていました。
葉の上にはダンゴムシが二匹・・・ダンゴムシ?が、ちょっと迷いましたが現行犯だ!と丸まったダンゴムシを処分しました。その後野菜を作っている同級生が遊びに来たので「ダンゴムシはニガウリの葉を食べるかね?」と聞いたら「さぁ~、食わねえだろう」と言いました。
今頃ダンゴムシは「冤罪だ!」と怒っているだろうか、真相を突き止めたい気持ちです。

5月28日(日)”瓦で遊ぼう”の講習会が開かれました。
飯島俊城先生を講師にお招きして凞光書道塾と合同で藤岡瓦を作るのと同じ土を使って書道用具を作りました。
墨床、水滴(水盂)、香炉、筆架、硯屏、小硯、小物入れ、犬(?)などなど沢山に用意された土が次々と思い思いの作品に仕上がっていく、みんな真剣で一生懸命、時々笑い声が入ってまさに童心に返った二時間余りでした。
 さて古来より書の世界には「文房四宝」という言葉があります。
「文房」とは書斎の事、「四宝」とは書をする上でなくてはならないもの、則ち「硯・筆・墨・紙」の四種の事で、書斎における宝物として大事にされてきました。この中でも王様と言われるのは硯です。ほかの三品は随時補充(中には美術工芸品としての価値があるものもあります)しますが硯は一生の友とも言われています。
 また、書をする上で必ずしも必要なものではありませんが、筆筒、筆洗、筆架、書鎮、水滴、硯屏の六品を四宝と合わせて「文房十友」と呼んでいます。
 その他にも書を取り巻く文房具には硯箱、印箱、印盒、筆吊、腕枕、怪石などなど愛玩物的要素の高いものもありますが、これらを愛でることによって多くの文人たちは環境を整え、鑑賞眼を、創作意欲をそして精神性を高めていったのでしょう。
 今回、自分自身で作った文具を机上に置き眺める事ができますが、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれません。

2017年6月4日日曜日

雅塾通信 第113号・・・丸刈りの畦に黒々キジ一羽(H29.5.1)

 藤岡公民館の二階にある書道教室の南側の窓から外を眺めると、駐車場には車がびっしり、道を挟んだ向こう側の市民ホールの駐車場もいっぱいの車、その西側のサッカー場には30人ほど御高齢の方がグランドゴルフに興じています。若葉を揺らしながら春の風がさわやかに流れ、真剣に筆を動かす教室は、物音ひとつしない静かな平和な空間です・・・一瞬、「ここへミサイルが飛び込んだら!」と想像してしまいました。この平和な空気はいっきに方向転換するだろう、と想像力は悪い方へ悪い方へと進みます。いろいろあるでしょうが、トップ同士の外交交渉を切に願うものです。

春は出会いの季節であるとともに初心に帰る良い時期です。書の基本事項について少し考えてみます。

手本について
 文化祭や市民展のとき、書作品を見に来た絵の関係者の方に何度か「この作品は自分で考えた作品ですか」と聞かれたことがあります。最初質問の意味が分からなかったのですが、これは手本があるのかどうかを聞きたかったようです。真似か創作家で評価の基準を作ろうとしたのでしょう。
 書には臨書という大事な学習方法があり、また師に手本を書いてもらいそれをまねることがあたりまえのようになっていますがそのあたりが絵の世界とは少し違うのかもしれません。
景色や物をみて「絵になる」などと評価することがありますが「字になる」とは言いません。このことは習う対象物が絵と書とでは全く違うということです。
 書は人間が必要として考え、作り上げた文字を書くのですから人の書いた古典や師の手本を真似することは仕方のないことです。もちろん書以外の芸術作品や自然の風物を書の手本として取り入れることはある意味大事ですが、本命はやはり人の書いた書そのものを手本にすることといえます。
 ここで手本には二種類あると考えなければいけません。ひとつは古典的な作品、もう一つは師を含めて近・現代人の作品です。
 古典的作品は、長い歳月にわたり、無数の人たちの鑑賞評価を経て、今まで生き残ったものでありますから現代人の手本よりは作品としては優れていると思います。しかし古典作品はもともと手本として書かれたものではなく、またその多くは石や木に刻されたものの拓本が多いので初心者には習いにくく難しいと思います。そこで師が書いた古典を参考にし、現代人の書かれたものをその時々の力に合わせて練習することが必要になってくるわけです。
 しかしこの段階はなるべく早くに卒業し自分の力で古典を習うことができるように努力をしたいものです。
 さらに言えば古典を習うことも最終目標ではなく、真の目標は自分自身の書風の確立と思います。手本なしで作品を仕上がることから始めなけらばなりません。この作業は苦しいけど楽しいものでもあります。
 ここで手本の弊害を一つ。手本を習うことはその型にはまることを目標にすることですから、時としえその人の才能を、良さを摘み取ってしまうこともあるのです。また一つの型にはまってしまうと次の段階、次の型へ向かって脱出することが容易でないということです。
 型というものは決して一つではないということも頭に入れておきたいことです。

2017年5月15日月曜日

雅塾通信 第112号・・・暖かや 愛車の傷も治りくる(H29.4.1)

 何事も基本は大切ですが、改めてそれでは書道の基本とはいったいなんでしょうか。最初に習う基本点画、永字八法などはもちろん基本中の基本ですがこれを完全にマスターしてから次と言うものでもありません。
 今、当塾では古典の臨書を中心に勉強をしえいます。一言に古典と言ってもいつの時代までのものを古典と呼ぶのか、この位置づけは大事です。昔のものがなんでも古典かと言うとそうではありません。私見ですが唐代の書までが古典と言われるのにふさわしいような気がします。なぜなら王羲之の普遍的な文字を基本に据えて書かれた書がざっくり言ってしまえば唐代までだったからです。
 唐代以降は個性が表面に出た書が多くなってきました。(古典を土台にした上ではあるが)。歴史と社会背景から必然に生まれたこれら個性的な作品は古典として学ぶには危険が伴います。しかし古典臨書と平行して創作作品を創っていく上では大いに参考になります。
 今、雅塾で学んでいる古典は唐代までのそれが中心です。楷書では九成宮醴泉銘、行書では蘭亭序、集字聖教序、草書では書譜、隷書では乙瑛碑、曹全碑などの漢碑類です。基本とは日々これらの古典を学んでいることを言います。
 ここで大事なのは基本ですから徹底的に真似をすることです。これを自分流で書いてしまうと基本から外れて我流の字になってしまいます。
 したがって日々の練習の中に基本があるのです。基本を学びながら創作作品を創るときには好みに応じて古人の書かれた好きな作品の中からその筆法・構成を学び取るようにするのが良いと思います。

2017年5月14日日曜日

雅塾通信 第111号・・・てのひらに小じわ目につく寒の朝(H29.3.1)

 2月は逃げると言われていますが逃げられないように一日一日を意識しながら過ごしました。
 若い頃からの好きなフレーズに”無理なく無駄なくあきらめず”というのがあります。「無理なく…あきらめず」と言うところは納得していましたが「無駄なく」の部分が引っかかっていましたので少し変えて”無理なく急がずあきらめず”と言い換えていました。何をもって無駄と言うのだろうかとちょっと自信がなかったのです。しかし最近は、この世に「無駄なものなし」と割り切って”無駄なく”に戻っています。無駄なものはないと思うと楽になりました。
 
 2月11日、12日の両日、藤岡公民館文化サークルの展示会が市民ホールで開かれました。
生け花、手芸、刻字、篆刻、織物、俳句、絵画、絵手紙、紙粘土、ペン、書道など34教室の参加で、書道だけでも8教室、約90名の方が出品しました。
二日間の展示ですが作品作りから解放された生徒さんたちは、見学に来た知人・友人たちに「駄目だ駄目だ」と照れながらも楽しそうに時を過ごしていました。

 24日~27日まで桐生市文化会館で聖筆選抜100人展が開催されました。雅塾からは小生と菅生紫玉さんが出品しました。初日には紫玉さん、三葉さんの塾生二名と松本・飯島・安原君ら書友7名で鑑賞してきました。
 久しぶりにお会いした星野主幹は、100名選抜する苦労話や寄合書道会の難しさなど話されていました。
 ご存知のように聖筆会は毎日系です。しかし種々の事情で創設時から一党一派に属さない事を運営方針としていますから公にはそのような発言をしているし会員は自由に活動しています。そのあたりの空気のありように主幹としては苦労があるようです。

 書の世界はとてつもなく長い歴史と伝統の中で育ってきています。幅広い世界ですから自由な発想で学んでいきたいものです。
聖筆誌3月号に出品者100名全員の作品が載っていますのでご覧になってください。

「書道の展覧会は難しい、よくわからない」とはよく耳にする言葉です。
しかしどんな書展でも目的をもって開催されます。目的を知りたくさんの作品を見ることによって書の世界が広がり理解力も高まります。機会を見つけて鑑賞しましょう。

2017年2月12日日曜日

雅塾通信 第110号・・・雪被り 面貌変える今朝の山(H29.2.1)

 毎年思うことですが、1月という月は長く感じます。いつもと違う行事が多いせいかと思いますがはっきりした原因はわかりません。
 暮れから正月にかけては子供三夫婦と孫たちが計13名押し寄せ、四日まではその後始末に追われます。その合間をぬって寺をはじめとして3軒ほど御年始回りをします。
 展覧会鑑賞にもいきました。まず書友・木附さんのほのぼのしたやすらぎ個展、三度も遊びに行ってしまいました。
 上毛書道30人展では篆刻を出品した飯島さんの席上揮毫がありました。篆刻の性質からして難しい企画と思いましたが、刻す文字を揮毫し、刻した後、拓本に採って見せるという今までの席上揮毫には見られなかった内容のパフォーマンスでよい演出でした。瓦泥印を使った試みも新鮮味がありました。
 「日本絹の里」特別展では”群馬の養蚕ことば”というテーマでギャラリートークがありました。講師は新井蘭雪さんでした。最近方言や言葉に関して新井さんがよく新聞紙上に登場します。いまや言語学や方言学のスペシャリストです。
 新井さんのトークは、持ち前のソフトな滑舌で、とかく難しくなりがちな学問の世界を、トーク会場に合わせて自分の言葉と身近な体験を通して語りかけるのでとても解りやすく飽きさせません。
”蚕”に「お」や「さま」の敬語をつけるのは生計を支えてくれるものへの畏敬の念の現れであるということに留まらず、養蚕を生業とする人たちの生活の中に育まれた優しさが見られるという踏み込んだ表現は聞くものに当時の生活様式を連想させ、方言を学問として見るだけではない講師の人間性の豊かさが感じられます。私も母の実家が養蚕農家でもあったので当時、子供ながら母について手伝いに行った頃のことを思い出します。
 月末には高崎シティギャラリーで開催された日中書画交流展を見てきました。これは高崎書道会と中国の標準草書学社の会員による合同展で、昨年の秋に南京で開催した作品を移動展という形をとって今回高崎で展示したものです。
両会とも于右任(うゆうじん)先生を師と仰ぐ書道団体で以前から深い友好関係を結んでいます。個性を前面に押し出すことに重点を置いた最近の中国書道の風潮を思わせる大胆な作品が、標準草書学社会員のなかにたくさん見られました。
于右任先生と故金沢先生の作品は傑出しておりしばし見とれてしまいました。
 さて、今年度の前期昇格試験課題が発表になりました。詳細は聖筆誌2月号58ページに載っていますのでご覧ください。作品締め切りは5月10日です。塾としては5月6日の練習日を最終提出日とします。まとめて勉強できる機会ととらえて挑戦することを期待します。
ある学習塾の先生がこんなことを言っていました。
人間の脳は本来怠け者にできている。努力したり考えたりすることは嫌いでのんびりしているのが好き、と言うのです。面白いと思いました。ただし、目標を持つと俄然活性化して働きだす。勉強嫌いの子供も目標が決まってやり始めると三か月で変わっていくのが解ると言うのです。なるほどさようかと思った次第です。

2017年1月10日火曜日

雅塾通信 第109号・・・一点の雲なき空へ大根干す(H29.1.1)

 今年は西暦では2017年、元号では平成29年、干支でいえば丁酉と表記します。書の世界では落款を書くときの日付にはこの干支がよく使われます。
 これは中国の習慣に根差したものです。十干と十二支を合わせて干支と言いますが、十干とは、殷の時代から行われていた日を数える方法で、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の10を指します。十二支はご存知の子、牛、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の12でこれもまた同じ時代に一年12か月の名称として使われたのが起源で、十干と同様に1から12までの記号として用いられるようになりました。また、方位や時刻を表す呼称としても用いられたり年も表します。
 十干と十二支を一つずつ組み合わせていくと60通りになりこれを60干支とも呼びます。
 還暦というのは、数え年61歳の事で、十干と十二支の組み合わせにより61年目に元の干支に戻ることでこれを祝うことを還暦(華甲とも言う)の祝いと言います。
 酉は動物では鶏が充てられていますが酉の字源は酒樽の形から来ていて酒に関する文字に扁や旁として使われており鶏とは直接関係がありません。
 十二支が動物に充てられるようになったのは漢の時代です。これを十二支獣といいますが身近な動物が充てられていて親しみを感じるようになりました。確かに漢字で書かれた書作品には、落款に年号を記す場合、漢字で記入した方が収まりが良いように思います。
 月の別称でよく使われるもので、孟春(一月)、仲春(二月)、季春(三月)という呼び方がありますが、落款に結構よく使われていますので覚えておくと便利です。

    春   夏   秋   冬
孟  一月  四月   七月  十月
仲  二月  五月   八月  十一月
季  三月  六月   九月  十二月

四季の頭に孟、仲、季を付ければよいわけです。ただしこれは全て陰暦での呼び方です。