藤岡公民館の二階にある書道教室の南側の窓から外を眺めると、駐車場には車がびっしり、道を挟んだ向こう側の市民ホールの駐車場もいっぱいの車、その西側のサッカー場には30人ほど御高齢の方がグランドゴルフに興じています。若葉を揺らしながら春の風がさわやかに流れ、真剣に筆を動かす教室は、物音ひとつしない静かな平和な空間です・・・一瞬、「ここへミサイルが飛び込んだら!」と想像してしまいました。この平和な空気はいっきに方向転換するだろう、と想像力は悪い方へ悪い方へと進みます。いろいろあるでしょうが、トップ同士の外交交渉を切に願うものです。
春は出会いの季節であるとともに初心に帰る良い時期です。書の基本事項について少し考えてみます。
手本について
文化祭や市民展のとき、書作品を見に来た絵の関係者の方に何度か「この作品は自分で考えた作品ですか」と聞かれたことがあります。最初質問の意味が分からなかったのですが、これは手本があるのかどうかを聞きたかったようです。真似か創作家で評価の基準を作ろうとしたのでしょう。
書には臨書という大事な学習方法があり、また師に手本を書いてもらいそれをまねることがあたりまえのようになっていますがそのあたりが絵の世界とは少し違うのかもしれません。
景色や物をみて「絵になる」などと評価することがありますが「字になる」とは言いません。このことは習う対象物が絵と書とでは全く違うということです。
書は人間が必要として考え、作り上げた文字を書くのですから人の書いた古典や師の手本を真似することは仕方のないことです。もちろん書以外の芸術作品や自然の風物を書の手本として取り入れることはある意味大事ですが、本命はやはり人の書いた書そのものを手本にすることといえます。
ここで手本には二種類あると考えなければいけません。ひとつは古典的な作品、もう一つは師を含めて近・現代人の作品です。
古典的作品は、長い歳月にわたり、無数の人たちの鑑賞評価を経て、今まで生き残ったものでありますから現代人の手本よりは作品としては優れていると思います。しかし古典作品はもともと手本として書かれたものではなく、またその多くは石や木に刻されたものの拓本が多いので初心者には習いにくく難しいと思います。そこで師が書いた古典を参考にし、現代人の書かれたものをその時々の力に合わせて練習することが必要になってくるわけです。
しかしこの段階はなるべく早くに卒業し自分の力で古典を習うことができるように努力をしたいものです。
さらに言えば古典を習うことも最終目標ではなく、真の目標は自分自身の書風の確立と思います。手本なしで作品を仕上がることから始めなけらばなりません。この作業は苦しいけど楽しいものでもあります。
ここで手本の弊害を一つ。手本を習うことはその型にはまることを目標にすることですから、時としえその人の才能を、良さを摘み取ってしまうこともあるのです。また一つの型にはまってしまうと次の段階、次の型へ向かって脱出することが容易でないということです。
型というものは決して一つではないということも頭に入れておきたいことです。
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