過ごしやすいと言っては変ですが例年に比べてじりじりとした暑さのない8月でした。もう朝夕は季節の変わり目を感じます。
戦後72年、今夏、テレビの戦争に対する報道がとりわけ生々しかったように思います。それは米国など国外からの映像や高齢化した戦争体験者の証言によるものでしょう。これを歴史上の出来事として眺めるのではなく現代社会と照らし合わせて考えることが必要です。
戦争の影は知らぬ間に近くに寄ってくるものです。そして理屈をつければ戦争は正しくなってしまうものです。
さて書を習う人にとって漢字と書の歴史を学ぶ事は大切なものと常々思っていますがそんな思いにぴったりの展覧会が”漢字三千年の歴史展”でした。
資料としての数は決して多くはありませんでしたが、甲骨文・金文・帛書・竹簡木簡などの本物を目にすることができ漢字の変遷が分かりやすく展示されていました。見ていく中で新しい発見もありました。
甲骨文の文字は、占いが終わった後に記入したものであるということ、青銅器にある金文は彫ったものか、鋳造したものか、の疑問は今回ではっきりとしました。当時は青銅器より硬い刃物はなく、青銅器の内側の狭いところに文字を刻むことなどは不可能との説明でした。書物などで金文を紹介する文章に「金文は青銅器の内側に刻されている文字」などと解説されているものが多いため、刻した=彫った、と理解してしまいやすいようです。
青銅器の文字は凹型がほとんどですが今回は凸型文字の青銅器がひとつありました。珍しいもので特別に依頼をして借りてきたのだそうです。凹型が多いのは文字の摩滅を防ぐためとか・・・。
紙が発明される以前に使われていた絹に書かれた文字がありました。竹や木片書くのからみればだいぶ便利です。それは帛書と言いますが紀元前、漢の時代からすでに養蚕はあったということです。帛書は千年ぐらい保存できるといわれてますがこの帛書は二千五百年前のもの、真空パックされていますが空気に触れると粉々になってしまうそうです。
珍しい墓誌名がありました。遣唐使として中国で客死した、「井 真成」の墓誌名です。病に侵され36歳で没したとあります。遣唐使を大事に扱っていた証明になります。碑文の中に日本という字が載っていました。当時は倭の国とか扶桑とか呼ばれるのが一般的だったらしい。
ところで過去の中国では漢字は実際に一部の特権的階級の人たちだけのものでした。それが人民共和国になって一般人いわゆる労働者・農民など圧倒的多数の人たちに漢字文化を広げるための政策として簡体文字を作り正規な文字として取り入れました。学校教育の場で教え、公式文書、新聞雑誌、書物の印刷などに広く使って定着させてきました。更には表意文字である漢字を世界共通の表音文字に改めようとして「漢語拼音法」を文字改革の第一歩としたようですがこれはあくまで漢字に対する補助的な道具としての役割を持つことにとどまりました。ちなみにこの拼音は中国語を学ぶ時の発音記号として使われています。この簡体字は展示してありませんでした。
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