2019年10月22日火曜日

雅書道塾通信 第140号・・・秋の水桶たっぷりに顔洗う(R1.10.1)

 朝、北側の雨戸を開けようと軒下を歩いていたら頭に引っかかるものがあります。見上げるとゆうべは気が付かなかったけれど蜘蛛の糸です。取り払おうと見上げるとオーツ!と思わず声が出ました。青空の下、電線から生け垣、軒下の支柱にかけて何本もの糸がキラキラと朝日を浴びて光っています。電線からのは太く見え、二階の屋根の高さから一直線、”女郎蜘蛛”の巣です。
 そういえば毎年今頃は高箒をもって家の周りの蜘蛛の巣払いをしていました。そうか・・箒だと思いつくも不思議と足が動かず蜘蛛を見つめていました。長い足、八本あり黄色と黒のまだら模様。胴はふっくら楕円形、大きい、3センチを超えるか、なかなか存在感があります。よく見ると離れたところに小さな子供が三匹ほどまるで空に浮いたようにいます。虫や枯れ葉などが巣に引っかかりあまり綺麗ではありませんが、「いや、このままにしておこう」という気分になりました。女郎蜘蛛は毒も弱く害虫を食べてくれるいわゆる益虫の部類です。軒下に大きな蜘蛛の巣、だらしがなさそうですが毎朝眺めてみたいと思います。

 10月1日より消費税が10%になりました。納税は義務ではありますが、いろいろとちょっと高くないか、という心境です。その使い方に嫌が上にも関心をもってしまいます。
 台風15号による千葉県を中心にした被害は想像以上でしたが停電の長さには驚きました。今や電気は社会構造の中心をなしているインフラ設備、万が一に備えて二重三重の防護対策が必要だなと感じます。

雅書道塾通信 第139号・・・久方の朝の散歩や秋の風(R1.9.1)

 長かった梅雨が終わったとたん猛暑が続き、そろそろ雨が欲しいと思っていたら九州では集中豪雨、降雨量は1時間でひと月分の二倍の量、150ミリが降ったそうです。集中型自然災害は今まで想定外だったのでしょうか。報道される現状を見てその惨状に絶句です。

 8月は15日の終戦記念日を軸にして戦争と平和について考える特別な月です。想像をはるかに絶する犠牲の上に現在があることを鑑み、志を半ばにして亡くなった多くの人たちに思いを馳せ、想像力を働かせることが肝心です。戦争の影は知らぬ間に隣に立っているかもしれません。

 さて、漢字はいつ頃日本に入ってきたのか、の話も三回目になりました。漢字=書という見方になりますが現存している日本の書では聖徳太子が書いた「法華義疏」が最古です。それ以前のものとしては古墳から出土した剣や鏡に鋳込まれた文字が残っているだけです。
 現在、劔に刻された文字として最古のものは奈良の東大寺山古墳から出土した「東大寺山古墳出土太刀銘」です。そこには隷書体で「中平□□五月丙午造作文(支)刀百練剛上応星宿□□□」と刻されています。「中平」という年号は後漢の霊帝(184~189)の時代で後漢の王朝から二世紀末に下賜されたものと考えられていますがどういう経緯で伝わってきたかはわかっていません。
 続いて奈良県天理市から発見された「石上神宮七支刀」。これには「泰和四年(369)」の年号が記されており、百済で作られ何らかの形で日本に送られてきたと考えられています。しかし、この二つの劔に記されている文字を受け取った人が理解していたかどうか、は解明されておりません。
 その後、埼玉県のさきたま古墳群から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣銘」には「獲加多支鹵大王」「乎獲居」「辛亥年(471)」など115の文字が記されていました。この中の「獲加多支鹵大王」とは雄略天皇を指すこともわかりました。前二者とは変わった内容になってきました。更に熊本県にあった江田舟山古墳から出土した太刀には75文字が彫り込まれており銘文の最後に「書者張安」とあり、銘文は渡来人ですがこの刀を作らせる依頼をした「无利弓」や、刀工は「伊太□」と、日本人の名を漢字一字一字で表記され、文字を仮名的に使っていることも判明しました。すなわちこの頃は日本人も文字を理解し使用し始めてきたと思われます。

 次に鏡については、和歌山県の隅田神社に保管されていた「隅田八幡神社人物画像鏡」には48の文字が記されています。その中に「斯麻」「穢人今州利」と言うような人名らしき文字や「意柴沙加宮」と言った地名らしきものが記され仮名の発展を考える上での資料ともなっています。なおこの鏡に記されている「癸未年」を443年とする説と503年とする説の二つに分かれているそうです。こうして四世紀末から五世紀初めにかけて日本人が文字を使用し始めたことが確定したと考えられます。

2019年9月16日月曜日

雅書道塾通信 第138号・・・今朝も雨妻のつぶやき梅雨長し(R1.8.1)

参議院選挙も終わりました。投票率が選挙区で48.80%でした。全有権者の半分にも届かない。その中で政権与党の比例区での得票率が35.4%、ほかの政党より支持率は高井とはいえ全有権者数の17.2%です。社会生活をしている以上どの政党を選ぶにせよせっかく手にしている一票、無駄にはしない政治意識を普段から有権者としては持ちたいものです。

先日同級生に誘われて東京国立博物館で開催されている「三国志展」を観てきました。若いころ吉川英治著の三国志を読んでわくわくしたことや書を通して中国の歴史に興味を持たざるを得なかったことなどを鑑み、また同級生に遭える楽しみも含めて1日遊んできました。
 前回の通信137号で日本にはいつごろ文字が入ってきたかと言う話をしましたが「三国志展」で「卑弥呼」と魏国との接点が紹介されていました。
卑弥呼は170年生(?)248年没、当時の日本は倭国といい数十の国々からなっていたと言います。時は弥生時代、中国から渡ってきたコメ作りの技術で農業が盛んになってきたころです。米作の普及とともに一定の土地に集団で住みつく村制度が確立しました。同時に水利や土地を目当てに争いが始まりました。卑弥呼はそれを納めていったとあります。中国の歴史書「魏志倭人伝」に紹介されている「卑弥呼」は「まじない」や「占い」にたけておりその力をもって「邪馬台国」を治めたとあります。また卑弥呼は当時の中国で最も勢力のあった「魏」の国に使者(239年)を送って交流を深め魏の皇帝に「親魏倭王」の称号と「銅鏡100枚」を賜ったと記されており「魏」国をうしろだてにして諸国の長に銅鏡を送り勢力を広めたとあります。展示会会場には権力者の象徴である銅鏡が10点ほど展示されていました。
 ところで魏国に使者を送り交流を深めていった卑弥呼は文字を使いこなせていたのでしょうか。魏王朝と卑弥呼との間には国交文書の往復があり文字を使いこなせたと思いがちですがその証拠はありません。漢文で書かれてあった外交文書はそれ専門の起草者がいたというのが定説になっています。しかもそれは倭語を理解できる中国人か朝鮮人、または漢字・漢文に習熟した渡来人だったと言われています。紀元前後から卑弥呼の時代に至るまで中国や半島からおびただしい数の文物が移入されたことは想像できますがこの時代、倭人が文字を使って言葉を伝達したのかの確たる証拠はまだないようです。
 一方、既に日本人独自のことばで固有の文字は存在していたという説もあります。その一つが二世紀末から三世紀中ごろのものと言われる「墨書土器」です。発掘された土器に残されている文字らしきものや記号、絵などがかきこまれているものです。こちらは今後の新発掘・解明が待たれます。もう一つは「神代文字」と呼ばれるものですがこれは今のところ確証はないようです。
それにしても「卑弥呼」とは不思議な女性、数十に乱立し各地で争いが起こり大きく乱れていた地域を治め、魏の国と交流し大陸文化を取り入れた行動力と統治能力、巫女として神の意思を聴くことにたけており「魏志倭人伝」の一節には、「千人の従女に身の回りの世話をさせて部屋に入れたのは一人の男性だけ、「まじない」「うらない」の結果をその男性を通じて人々に伝え政治を行った」とあります。
卑弥呼は女王として「邪馬台国」を支配しましたが「邪馬台国」の所在は九州北部か近畿地方か二つの説があり現在のところ正確な場所はわからないようです。また文字の存在を知ってもそれを使うようになるにはそれなりの期間がかかることは容易に想像できます。卑弥呼没し時代は大和へと進みます。

雅書道塾通信 第137号・・・薄闇に半夏生あり雨戸引く(R1.7.1)

今年も半分過ぎました。7月と言うのにどんよりとした毎日です。農作物が心配です。
 今月は知事選、参議院選があります。
 ところで、「ことば」は言霊とも言われ、優れた不思議な力を持っています。落ち込んだり迷ったりしたとき、ふとした言葉に巡り合って励まされ勇気づけられることもあります。読書をするのも生き方の指標になることばを求めている場合が少なくありません。
 ところがこの「ことば」使いようによっては人々をたぶらかすこともできます。その最たるものが甚大な被害がでている「オレオレ詐欺」のたぐいでしょう。おりしも選挙戦真っただ中、演説を聞いていると実に言葉が巧みです。功罪のある「ことば」だけに騙されないよう社会の現状を認識し、その人の行いを見て判断することが肝要です。

 先日会員から「日本にはいつ頃漢字が入ってきたのでしょうか」と聞かれました。残念ながら日本に文字が伝来した時期ははっきりとはしていません。しかし「多分その頃でしょう」とは書かれています。大雑把ですが、紀元前後をはさんだ弥生時代の人々もすでに大陸に文字なるものがあることは知っていたようです。中国に「漢書」という歴史書がありますがその中に当時の日本と大陸(今の朝鮮半島地域で後漢の郡であった楽浪郡)との交流があったと記されています。紀元後57年になると倭(日本)の奴の国(北九州の小国)から後漢の光武帝(後漢初代皇帝)に使者が送られたとあります。その証明になったのが1784年に福岡県で発見された「漢委奴国王」の金印です。その後も日本と楽浪郡、並びに後漢との交流は続きて徐々に文字世界にも広がっていったものと思います。したがって日本に文字が入ってきたのは紀元前後にぼつぼつと浸透してきたと理解してよいのでしょう。当時の日本では文字を必要とする場合は漢人や韓人が右筆として務めていたようです。

2019年6月2日日曜日

雅書道塾通信 第136号・・・学童を送る言葉や春惜しむ(H31.6.1)


いつの時代もそうだったのでしょうか、世の中、痛ましい事件や事故、憤りや悲しみを覚える事象があまりにも多い。一個人の力ではどうすることもできないように思いますが一人一人の人間が社会を作っていると思えば無関心でいることはできません。
日々、政治や社会の現象に目を向け、関心を持ち、原因を考えて過すことも大切なことと思っています。

5月は二つの展覧会を拝見しました。
一つは市内立石在住の門馬孝竹先生一門の“竹の会”書画展です。
漢字・かな文字作品も展示してありますが草花や自然を題材にした水彩画に気の利いたことばを添えた作品が主体でした。軽妙に描かれた絵とそこに添えられた暖かいことば、上品な作品群には見る人のこころを癒やしてくれる優しさがあります。先生はどこの書道団体にも所属せず生徒の皆さんと楽しみながら気楽に書いたり描いたりしているとおっしゃいますが元は漢字、かな、近代詩文から前衛まで広い分野で勉強されたことはその格調の高い作品に表れています。
今回で22回目、毎回、目と雰囲気を楽しませてくれる展覧会です。

二つ目は歴史と伝統のある“()刀根(とね)書道会展”。官公庁の職員やOBなど公務員関係の人が多い団体で現会長は岡庭飛鵬先生、以前は米倉大謙先生がご指導されていたと聞きます
漢字作品が主体ですが行草書作品での構図、散らし方の妙味や墨の濃淡等の表現方法に学ぶべきものがあります。出品者一人一人が創作と臨書作品の二点を課題としているようで馴染みのある古典臨書作品が出品されていて身近さを感じます。
以前は毎年開催でしたが今は隔年とお聞きしました。今年33回目です。

2019年5月12日日曜日

雅書道塾通信 第135号・・・軒下に つばめ止まって思案顔(H31.5.1)


元年51

時代は令和に変わりました。「どんな時代になって欲しいですか?」宮城へ集まった人たちへのテレビのインタビューです。老若男女ほとんどの人が「平和な時代に・・・」の声が圧倒的でした。赤ちゃんを抱いた若い夫婦も「この子が大きくなっても平和な時代でいて欲しい」と切実です。これは裏を返せば今、誰もが平和に対する漠然とした不安を抱いているからでしょう。

さて、“晴れた五月の青空にー♪”という歌がありますが今の時期、夜明けが早くていつもより早起きをしてしまいます。暫く休んでいたラジオ体操を始めるなど体を動かしたくなる朝の清々しさです。
我が家の狭い庭にもスイートピー、チューリップ、サクラソウ、ボケ、パンジー、木蓮などが色鮮やかに咲き誇っています。年中行事である苦瓜の植え付けも終わりました。
間もなく山も里も新緑に包まれるでしょう。四季の移り変わり、特に暖かさに向かっていくときは本当にありがたく思います。

昇格試験も終わりました。受験された皆さんお疲れ様でした。普段の練習プラス試験課題ですからいやが上にも沢山書くことになります。それが技量の向上に繋がりますから今後も資格のついた方は遠慮や臆することなく挑戦して下さい。
前月号でテレビ発表の文字「令和」は方筆系、「平成」は円筆系の字と書きましたが少し詳しく説明しますと、前者は背勢とも言う文字の造型法で、楷書を書いたとき二本の縦画が背き合う書き方で、引き締まった厳しい感じが出ます。欧陽詢(おうようじゅん)九成宮醴(きゅうせいきゅうれい)(せん)(めい)が代表的な作品です。
後者の円筆系は向勢とも言い縦画が外にふくらんで向き合うように書くこと、円みがありゆったりとした暖かさのある書き方で(てい)(どう)(しょう)鄭羲(ていぎ)下碑(かひ)などが代表的な書風です。
楷書作品を見たらこれはどっち系かなと分析してみるのも書を見る目を高めていくことに繋がります。

昨年の6月、通信125号で紹介した絵画コレクター、秋山 功氏の「続々・私の本もの美術館展」が今年も“ららん藤岡”で開催されました。
昨年初めて拝見して面白かったので今回も出かけました。会場正面入口の所に書家の天田研石先生揮毫の「令和」の色紙が飾ってありました。
秋山さんの好きな書家は井上有一(19161985)だそうです。前衛書家ですが晩年に書かれた作品“噫、横川国民学校”は当時深川の横川尋常小学校で教師をしていたとき遭遇した東京大空襲の惨状をことばで表した作品です。戦後33年経ってやっと書き上げることのできたという鎮魂の作品です。
数年前、長野県東御市にある梅野記念絵画館で開催された井上有一展で実際に拝見してきましたが詩と文字に圧倒され立ちすくんだことを覚えています。
ところで、絵を描く人には「さま」になる文字を書く人が多い。知人の画伯の言葉によれば「字を書くという意識よりデッサンをしている感覚で書いている」と言いました。かみしめたい言葉です。

2019年5月6日月曜日

雅書道塾通信 第134号・・・踏ん張って校歌斉唱卒業生(H31.4.1)


平成時代も一ヶ月を切りました。
仕事によっては慌ただしく影響を受けているところもあるでしょうがほとんどは淡々とした日常で過ぎていくのではないでしょうか。
興味は、新元号がなんとつけられるか、そして最初にテレビに写し出される文字はどんな文字か、にありました。
41日、「令和」と発表され、音感がちょっと軽いかなと感じましたが「和」という字は意味からしても音からしても大好きな文字でしたので「よしっ!」と思いました。「令」は命令のことばが浮かんで「あれっ?」と思い「漢字海」を引いてみました。
勿論命令の意味もありましたが他に①立派な。美しい。よいと言う意味があり、例としては、令聞令望=よい評判や立派な人望。また②として、他人の親族につける敬称(例)「令室」「令嬢」などがありました。
さて、揮毫された文字ですが平成の時と雰囲気が変わっていました。緊密な構成と強い線は南北朝時代、北魏の造像記の流れを汲んだ文字です。
31年前の「平成」の文字も同じく南北朝時代、北魏の書の系統でしたがこちらは時代が少し後で鋭角的な技巧を取り除いた懐の広い遠心的な文字構成でした。
「令和」は方筆系、「平成」は円筆系と別けてよいでしょう。特に「令和」に見られる線の細太の変化、波法の重厚さ、線質の強さ、配字などに作品としても学ぶべきところがあります。
何れにしましても来月から12月まで「令和元年=2019年」です。

少し前になりますが2月に「群馬書道大賞」を受賞した藤岡書道協会のT先生の記念展を鑑賞してきました。
墨象作品です。文字を題材として自分の感情を表現する芸術と理解しています。前衛書とも呼ばれていた記憶があります。前衛と言えば芸術分野では誰も取り組んでいない先駆的な役割を果たしていくことで簡単な事ではありません。
見る人の好みもあるでしょうが、作者が全知全能を駆使して作り上げた作品はやはり見応えがあります。
会員の皆さんも機会を作ってそれらの作品を鑑賞して前衛書が生まれてきた経過、書の役割、鑑賞の仕方など学んでみるのも書を理解する上で参考になること大であると思います。

本年度前期の昇格試験期間中です。受験する方は一生懸命取り組んでいることと思います。陽気も大分穏やかになってきました。教室での締め切りは今月最後の練習日、27日(土)です。よろしくお願いします。

来年6月には第三回の墨盒書道展を開催いたします。6月と言っても作品集を作ったりで作品締め切りは2月の末ころになります。
なにを書くか早めに決めて、よりよい作品を仕上げましょう。

2019年2月11日月曜日

雅書道塾通信 第133号・・・どんど焼き 上毛カルタの花が咲き(H31.2.1)


毎日毎日同じ事を繰り返して行なうことを習慣と言います。なにを当たり前のことをと思いますが結構大事なことです。
我が家の習慣其の1は、朝夕の雨戸の開け閉てです。夕方、家のまわりじゅうの雨戸を閉めて玄関の鍵を“カチャ”と閉めると、一日終わったな、となにか区切りのついた安堵感を覚えます。
朝起きて、暗い部屋から(明るい部屋では駄目です)1枚目の雨戸をさっと開けると光と外気がぱっと体を覆い、すーっと頭が軽くなって目が覚めます。体調の目安にもなります。
顔を洗うのも子供の時からの習慣です。この歳になるまで多分洗わなかった日はないのではないかと思うくらいです。歯を磨くのも食事の仕方もみんな習慣です。ほかにも枕元には翌日着る洋服をたたんでおくこと、履き物は脱いだら揃えておくことなど今考えるとよくうちの親はいろいろと躾けたものだと今更ながら感心しています。習慣が人を作り上げることを知っていたのかもしれません。
話は飛びますが今コレステロール値が高くて医者に薬を勧められています。これは明らかに生活習慣の乱れだと思っているところです。
* 毎年思うことですが1月はことのほか長く感じます。正月の三が日、子・孫たちが来て賑やかに過したことがもう遠くの出来事のように感じます。1月は観たい展覧会の多い月です。今年も顔真卿展を含め6ヶ所回りました。日常の生活にプラスしてこれらの行事が入ってくるのは毎年1月だけです。
先日個展をしている木附さんところへ立ち寄りました。「始まった頃のことがもう遠い事のように思える、日の経つのが遅く感じる」と仰っていました。
先日、NHKの人気番組“チコちゃんに叱られる”で「歳をとると日の経つのが早く感じられるのはなぁ~んでか?」と質問していました。答えは「歳をとると感動が少なくなるからだぁ~!」でした。
諸説あるかもしれませんが正月の喧噪も、展で観た名品も、木附さんが大勢の人と交流するのも何らかの感動が生じていたのかもしれません。
ただ、テレビでは感動を受ける年齢のピークは19歳と言っていましたからその後は本人の心掛け次第と言うことでしょうか。
*「顔真卿展」を観てきました。
平日ではありましたがお目当ての「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」と懐素(かいそ)の「自叙帖(じじょちょう)作品の前は混雑してました。二つとも印刷物ではお馴染みの古典ですが直筆作品を観ると書かれた時代や環境、書いた人なりも自然と想像してしまい新たな感慨に浸れます。立ち止まってじっくり観察したかったのですが残念ながらかないませんでした。
“王羲之を超えた名筆”という副題の顔真卿展ですが顔真卿も当然ながら王羲之の流れをくんだ初等の三大家の書を学んでいることは想像できます。ですから顔真卿は王羲之書法の流れに強烈な個性、新風を吹き込み後の書道界に大きな影響を与えた書と評価したいものです。
書道博物館発行の「週刊瓦版」122日号には王羲之も没後140年ほどは、七男の王献之の書の方が高い評価を得ていたと書かれており、顔真卿も没後250年ほどは正当な評価を得られていなかったと述べられています。そして王羲之、顔真卿を二人の書聖と表現しています。人物評価は難しいです。

2019年1月6日日曜日

雅書道塾通信 第132号・・・若き医師 風邪に注意と 診るたびに(H31.1.1)

明けましておめでとうございます。
平成も最後の年となりました。しかもあと4ヶ月、しかし昭和から平成に変わったときよりも淡々と時が流れているように感じます。2019年、果たして新元号はなんと命名されどのような文字で発表になるのでしょうか。
今年は十二支で言うと12番目「()動物は猪が充てられています。干支で言うと「()(がい)つちのとい」です。
十干は日を数える方法、十二支は月を数える方法として三千数百年前殷の時代から使われていました。十二支による時刻は日本でも明治時代まで使われていました。24時間を12に分けたもので、一時(いっとき)が二時間になります。
十二支が動物の名前と結びついたのは漢代です。身近な動物だけに親しみやすくなりました。
沼田市利根町にある老神温泉は干支に関係のある温泉地のようです。赤城山の蛇の神と、日光・男体山のむかでの神が戦ったときに、赤城の蛇の神が見つけてその傷を癒やしたと言われる温泉です。ホテルにある露天風呂に「(うま)の湯」「巳の湯」などと命名してあります。

さて、日本が地震国、災害列島であると認識させられたのが今から24年前の「阪神淡路大震災」猪年でした。その年平成7年は「地下鉄サリン事件」があり「東京都知事に青島幸男」「大阪府知事に横山ノック」など異色な人が選ばれ、内閣総理大臣には「村山富市」がなっています。
今年はどんな年になるでしょうか。春に統一地方選挙、夏には参議院選挙があります。候補者の喋る「ことば」に惑わされること無く、「おこない」をよく見極めて清き一票を投じましょう。

15日から一閑堂で木附渓山さんの第二回ハガキ展が開かれています。
書にとって用筆法即ち筆遣いの技術はとても大事です。これは一生追究していかなければなりません。しかし木附さんの作品はそこから一歩突き抜けた感のする書です。自分自身の好きなことばを思うがままに書き、自分で額表装して仕上げています。
小さな展覧会ではありますが質の高い「こころの書・展覧会」です。210日(日)まで、70点ほど展示されています。

前号で紹介をした「顔真卿展」がはじまります(1月16日~2月24日)。
日本初公開の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」が今回展の注目作品ですが展全体を通して学べるのは、書体の変遷や顔真卿の人物像、その後の書家に与えた影響また唐の書が流入した奈良時代遣唐使と共に唐に渡った空海や最澄、橘逸勢などが活躍した平安時代、その他、顔真卿に限らず唐の四大家が日本に与えた影響など書を学ぶ者にとっては必要性のある内容満載の展覧会であります

雅書道塾通信 第131号・・・裸木の すべて落した いさぎよさ(H30.12.1)


“歳月は人を待たず”また12月を迎えました。
ことしは塾関係でも展覧会の多い年でした。3月には藤岡市民展、6月は藤岡市書道協会40周年記念展・墨盒書道展、10月には藤岡市文化協会芸術祭と3ヶ月に一回のペースでした。また春、秋と二度の昇格試験がありました。お忙しい中それぞれに出品、受験された生徒の皆さんお疲れ様でした。


会員の武井さんから第一報を頂きましたが、来年の116日(水)から224日(日)まで東京国立博物館平成館にて「(がん)(しん)(けい)」展が開催されます。
顔真卿(709景龍3年~785貞元1年、77歳没)は初唐の三大家、欧陽詢(おうようじゅん)()(せい)(なん)褚遂(ちょすい)(りょう)から遅れること約半世紀中唐時代に活躍した官僚・政治家・軍人・詩人そして書を能くした人です。
顔真卿はそれまでの王羲之を祖として発展してきた書に新たな流れを作った元祖とも言うべき人です。
後の時代の書にも大きく影響を与えたと言う意味で顔真卿の書は革新的であったと言えるし第二の王羲之と評価される所以でもあります。
なぜそこまで評価されるのか、今回の特別展では顔真卿が生きた時代、置かれた立場、生き様などを知ることができ、強烈で個性的な書がなぜ生まれたか背景を知ることができると思います。
今回の特別展の目玉になっているのが台北故宮博物院藏の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)の直筆です。
顔真卿は玄宗皇帝に仕え、安禄山の変などで衰えゆく大唐帝国を支えた忠臣ですが、義に殉じた烈士としても讃えられています。その戦いのなかで亡くなった甥の「季明」に対する祭文(この際は弔辞)の原稿が祭姪文稿です。碑などに書かれた正式な書と違って弔辞の下書きとして書かれたものでその時の心情が表れており、また訂正した箇所なども生々しく正に構えずに書いた書として現在に至るまで行書の名品として書道史に名を残しています。
故宮博物院から出て、初めて海外で展示するのだそうです。顔真卿はその生涯を振り返ると簡単に筆先だけで真似をすることはできない厳しさを感じます。ましてや「祭姪文稿」は弔辞、その本質を誤りなくくみ取って学ぶことが大切です。

雅書道塾通信 第130号・・・あぜ道へ垂れて揃いし黄金の穂(H30.11.1)


10月下旬から晴れの日が続き朝夕は冷気を感じるようになりましたが、抜けるような青空に見とれてしまいます。秋まっただなか、澄んだ空気がおいしく感じられます。
さて、前号の続きです。行書の学習には必須古典と言われる「集字聖教之序(しゅうじしょうぎょうのじょ)、当塾でも現在5名の方が学んでいます。集字とは文字通り文字を集めと言うことで、この序(碑)は王羲之の字を集めて作られたものです。「集字聖教之序」は別名「集王聖教之序」「集王書聖教序」「()(にん)集王聖教序」「七仏(しちぶつ)聖教序」とも呼ばれています。碑の高さは350センチ、幅113センチ、行書で30行、行ごとの字数は8586字、全文で1904字あります。唐の高宗(こうそう)時代672年に当時の都長安(今の西安市)の弘福寺に建てられました。現在は西安碑林に保存されています。
この碑の1行目に「大唐三蔵聖教序(だいとうさんぞうしょうぎょうじょ)」とあるのがこの文章の題名です。「聖教」とは[西遊記]でお馴染みの三蔵法師玄奘(げんじょう)602664)がインドから持ち帰って漢訳した仏典のこと。「聖教之序」とはその冒頭に置かれた序文のことです。碑の2行目「太宗文皇帝製」がこの文章の作者を示します。唐の第二代皇帝李世民(太宗)のことです。そして3行目、「弘福寺ノ沙門(しゃもん)()(にん)、晋ノ右将軍(ゆうしょうぐん)王羲之(おうぎし)ノ書ヲ集ム(弘福寺の僧侶懐仁が王羲之の書蹟の文字を集めとあります
すなわち、唐の三蔵法師がもたらし翻訳した仏典にたいして、太宗が序文を書き弘福寺の僧懐仁が王羲之の書蹟の文字を集めてこの碑を作ったと言うことになります。
全文を五つの章に分けることができます。
    冒頭の「蓋聞二(けだしきくに)()有像(にぞうあり)」から「与乾坤而(けんこんとともに)永大(えいだいならんことを)」までの781字が太宗皇帝による序文です。
    つづく「朕才謝珪璋(ちんさいはけいしょうにおとり)」から「空労致謝(むなしくちしゃをわずらわさん)」まで63字は玄奘三蔵が序文を頂いて謝意を述べた時の太宗の言葉です。
    このとき皇太子であった高宗もあわせて記を作ってくれたのですがそれが次の「在春宮述(しゅんぐうにありて)三蔵(さんぞう)聖記(せいきをのぶ)(それ)顕揚(せいきょうを)正教(けんようするは)から以為斯記(もってこのきとなす)」までの579字。
    高宗に対する玄奘の謝意に答書した文が「治素(ちもとより)無才学(さいがくなく)」から「深以為愧(ふかくもってはじとなす)」までの50字。
    最後に、玄奘が新たに漢訳した「般若波羅密多心経」と立碑に携わった人々、建碑の年月日など431字があります。
ではこれらの文字は王羲之のどのような原蹟から集めたのでしょうか。最も採られている字が多いのは「蘭亭序」です。58字(48字という説もあり)使われているようです。そのほかでは喪乱帖などの手紙文や集帖など沢山の資料が使われていると想像できます。集字を始めてから建立されるまで実に25年の歳月を要しています。種々の墨蹟の字は大小様々ですし拡大したり縮小したり、ない文字も当然出てきますから、作字をしなければなりません。扁と旁を組み合わせるなどして作り上げています。文字のくずし方なども前後左右とのバランスを考えなければなりません。写真、複写など印刷技術のない時代に相当な労力と時間が必要だったことは想像できます。
一つの古典を臨書する時、その碑の由来など調べるとより深く学べることができるでしょう。