ちょっとマイクロバスから降りてみようということになりましたがガイドさんから「肌は出さないでください」といわれ手拭いを被って降りました。それでもわずかに出ている顔、腕の肌に直射日光が当たるとびりびりちくちくと刺さるような痛みを感じ何とも言えぬ怖さを感じました。長くさらしているとやけどをすると言われそそくさとバスに戻りました。今回の熊谷の新記録はその気温に近づいていました。命にかかわる暑さ、災害の範疇だというのもうなずけます。
7月下旬に高崎シティギャラリーで良寛展が開かれていました。が残念ながら所用で見に行けませんでした。もっとも良寛さんの字は直筆を含めて何度か拝見しています。最初は現職の頃、職場の旅行で見に行きました。続いて新潟の弟の案内で良寛記念館へ、そして藤岡市書道協会の研修旅行で2度、2度目は良寛の終の棲家となった木村家に寄せて貰い当主木村氏の話を伺いながら六曲一双屏風作品を始め浴びるほどの作品を拝見さえていただきました。
良寛さんを簡介すると、1758年新潟県出雲崎の名主山本家の長男として生まれています。18歳の時名主見習いとなり父の仕事を助けています。しかし複雑な家庭事情があったようですが性格的に名主には向かないと考えたのか弟に家督を継ぎ22歳の時得度を受け備中高島(現倉敷市)円通寺で禅の修行に入りました。
34歳の時恩師国仙和尚が亡くなり、諸国行脚の旅に出ました。それから約5年、木曽路、善行寺、北陸道を経て故郷出雲崎に帰ってきます。40歳で五合庵に住み始めます。このころから各地の名士たちが五合庵に集まり歌会など開いたり、既に亡き父次郎左衛門(俳号以南)の追善句集など刊行しています。45歳の時、国上寺の住職が退隠して五合庵に入ることになり良寛さんは国上や野積の寺を住居としながらも五合庵で歌会などは続けています。その後退隠した住職がなくなり良寛さんが再び五合庵に住むことになります。47歳でした。
52歳のとき、江戸に住んでいた儒学者亀田鵬齋が五合庵を訪れ良寛の草書作品を嘆賞したと記録されています。ちなみに亀田鵬齋は書にも堪能で揮毫した碑が全国に45基もあるそうです。都内には16基ありますが泉岳寺にある「赤穂四十七義士碑」が有名です。鵬齋は良寛に会って書風がすっかり変わったという話がありますが実際「良寛に会って草書の妙を知った。良寛を学んで自分の書の風格ができた」と語ったそうです。鵬齋は良寛より6歳ほど下ですがその後も詩、画賛などで交流を続けていました。
良寛さんは1831年に親しい人たちに見守られながら木村家で永眠、享年74歳でした。
さて、一番関心のある良寛さんの字についてですが、以前「この字は上手なの?」とか「鑑賞する字で習うものではない」などの言葉を聞いたことがあります。とても自分には批評などできませんが感じるところはその線の質と作品の明るさです。深く理解するには良寛さんの生き方まで及ばなければなりません。学ぶにはまず懐素の千字文から臨書を始めてみるのが良いでしょう。
7月下旬に高崎シティギャラリーで良寛展が開かれていました。が残念ながら所用で見に行けませんでした。もっとも良寛さんの字は直筆を含めて何度か拝見しています。最初は現職の頃、職場の旅行で見に行きました。続いて新潟の弟の案内で良寛記念館へ、そして藤岡市書道協会の研修旅行で2度、2度目は良寛の終の棲家となった木村家に寄せて貰い当主木村氏の話を伺いながら六曲一双屏風作品を始め浴びるほどの作品を拝見さえていただきました。
良寛さんを簡介すると、1758年新潟県出雲崎の名主山本家の長男として生まれています。18歳の時名主見習いとなり父の仕事を助けています。しかし複雑な家庭事情があったようですが性格的に名主には向かないと考えたのか弟に家督を継ぎ22歳の時得度を受け備中高島(現倉敷市)円通寺で禅の修行に入りました。
34歳の時恩師国仙和尚が亡くなり、諸国行脚の旅に出ました。それから約5年、木曽路、善行寺、北陸道を経て故郷出雲崎に帰ってきます。40歳で五合庵に住み始めます。このころから各地の名士たちが五合庵に集まり歌会など開いたり、既に亡き父次郎左衛門(俳号以南)の追善句集など刊行しています。45歳の時、国上寺の住職が退隠して五合庵に入ることになり良寛さんは国上や野積の寺を住居としながらも五合庵で歌会などは続けています。その後退隠した住職がなくなり良寛さんが再び五合庵に住むことになります。47歳でした。
52歳のとき、江戸に住んでいた儒学者亀田鵬齋が五合庵を訪れ良寛の草書作品を嘆賞したと記録されています。ちなみに亀田鵬齋は書にも堪能で揮毫した碑が全国に45基もあるそうです。都内には16基ありますが泉岳寺にある「赤穂四十七義士碑」が有名です。鵬齋は良寛に会って書風がすっかり変わったという話がありますが実際「良寛に会って草書の妙を知った。良寛を学んで自分の書の風格ができた」と語ったそうです。鵬齋は良寛より6歳ほど下ですがその後も詩、画賛などで交流を続けていました。
良寛さんは1831年に親しい人たちに見守られながら木村家で永眠、享年74歳でした。
さて、一番関心のある良寛さんの字についてですが、以前「この字は上手なの?」とか「鑑賞する字で習うものではない」などの言葉を聞いたことがあります。とても自分には批評などできませんが感じるところはその線の質と作品の明るさです。深く理解するには良寛さんの生き方まで及ばなければなりません。学ぶにはまず懐素の千字文から臨書を始めてみるのが良いでしょう。
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