このところすっかり秋らしくなり過ごしやすくなっていますが相変わらず日本列島は自然災害に見舞われています。先週は強烈な台風24号、関東地方にも直撃されました。
夜中の襲来でしかも強風とあって我が家でも2回の南側にある雨戸のない窓がちょっと心配です。毎回の事ですが厚手の段ボールを窓の外に貼りつけて防護をし、玄関の外側には土嚢を六個ほど奈良部、鉢物を動かしたりしてささやかな対策をとりました。零時過ぎ、結構な雨音や風の音がしましたが翌朝はからりと晴れてこのあたりは大過なく過ぎ去ったようでほっとしました。
9月中旬今成清泉先生が主宰する中国書画篆刻研究会の書道展「竹清書展」が開催されました。隔年開催で今回は七回目です。
この展覧会の特徴は、単に会員の作品を見ていただくだけでなく書に関係ある資料を展示、解説するところです。
今回は王羲之の「蘭亭序」及び「集字聖教序」関連の資料でした。
今更ですが王羲之の直筆は残念ながら現在残っていません。私たちが目にするものは後世の人が書いた写しとその拓本だけです。「蘭亭序」は書の歴史の中での最高傑作です。書を学ぶものにとって避けて通れない古典です。そもそも「蘭亭序」とは何ぞや?・・・スタート時点に戻って考えてみましょう。
「蘭亭序」は南北朝時代の初期、東晋の貴族官僚であった王羲之(307~365ころ)が、宴会の席上で客人たちに作った詩を詩集としてまとめたものに寄せた序文のことです。
この宴会(曲水の宴)は当時の地方長官(県知事のようなもの)であった王羲之が永和九年(353)に主催した雅会で、40余名が出席したかなり盛大なものでした。曲がりくねった水の流れに面して席を置き、杯を浮かべて、その杯が流れてくるまでに即興の詩を作る、という風流な酒宴でした。
全文324字でその大意は「会稽山陰蘭亭地方に住んで、その美しい景色を観るにつけ、天地自然・宇宙の偉大さを感じるが、それに比べて人間はいかに弱いか、ちょっとした喜びや悲しみに左右され、死を心配する、はかないものだ。しかし古人は生も死も同じだと言ったが、まさに人間のそうした弱さ、時と共に変化する感情、生命のあり方が、むしろ人間が自然の生き物であることの証明でもあると思う。今ここに集めた詩集を後世の人たちが読んだら、きっとその事を読み取ってくれるだろう」
今回の竹清展にはこの雅宴の模様を刻した「蘭亭図巻」が出品されていました。縦32.8センチ、横548センチ、一目で雅宴の様子がわかります。記憶に残っている方もいると思いますが、2013年に東博で開催された王羲之展に五島美術館蔵、東博蔵の「蘭亭図巻」が出品されていました。
さて、伝説によれば「蘭亭序」の価値を見出したのは唐の太宗皇帝です。太宗は王羲之の書に魅せられ、特にこの「蘭亭序」には思い入れが強かったようです。唐の三大家、欧陽詢・虞世南・褚遂良に臨書させ、それを石に刻させて拓本を取り、書の手本として普及させました。
竹清展ではその拓本の取られた時代、種類ごとに展示をし、普段見られない原拓本など貴重なものを一同に展示し比較対照することによって拓本の見方、手本としての選び方などが学べるように企画してありました。
2018年10月22日月曜日
雅書道塾通信 第128号・・・書家でない作家の書論夜涼し(H30.9.1)
9月4日、25年ぶりという強い台風21号が四国・関西方面に甚大な被害をもたらしました。最大風速44メートル以上(関空では51.1メートルを記録)の自然の威力の恐ろしさは、スクラップ置き場のようになった駐車場、倒壊した家屋・電柱など破壊された町並みなどを見ると想像を絶します。死者は11人、けが人は460人(9月5日現在)と報道されています。
このショックが冷めやらぬ6日の朝、テレビをつけると、今朝の未明に北海道を襲った震度7の地震報道、道路沿いの山が数百メートルにわたって崩れ、赤茶けた山肌がむき出しになってその下に民家がつぶれたり埋まってしまったでろうと予想される映像が映し出されました。思わず「エーッ!なんでー!」と声が出てしまいました。まだまだ実態があきらかになってませんが、9月6日現在死者5名、心肺停止4名、行方不明者31名と報道されています。北から南まで日本列島なんということか・・・。
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
8月9日墨盒書道展の反省会が運営委員を中心に行われました。
委員長より会期中の概要が報告され、続いて会計担当より会計報告、二年後の第三回展を開催することとなり運営委員長は松本凞盦さん続投と全員一致、拍手で了承されました。ちなみに今回は6日間で見に来てくれた方は609名でした。
反省会の中で出されて主なる意見を要約します。
1.作品集がだいぶ残ってしまったが次回からは鑑賞者にもっと多く配布するようにする。
2.会場が出品作品に比べて狭かったような気がする。これについては来年の第一回運営委員会(4月に予定)のなかで出品点数を把握してから検討することにする。
3.名票の表記について
訓読(読み)、訳文(大意)を記入する。
4.終了時間を18時から17時に短縮したらどうか。
この時間帯入場者は減るが多忙な人がやりくりして来る時間でもある、検討事項とする。
5.会場内は原則、飲食は禁止であるがお茶を出した事例があった。禁止にした方がよいと思う。禁止の方向で検討する。
以上、雑ぱくな反省会の報告ですが引き続き展に関する会員の皆さんからのご意見をお寄せください。
このショックが冷めやらぬ6日の朝、テレビをつけると、今朝の未明に北海道を襲った震度7の地震報道、道路沿いの山が数百メートルにわたって崩れ、赤茶けた山肌がむき出しになってその下に民家がつぶれたり埋まってしまったでろうと予想される映像が映し出されました。思わず「エーッ!なんでー!」と声が出てしまいました。まだまだ実態があきらかになってませんが、9月6日現在死者5名、心肺停止4名、行方不明者31名と報道されています。北から南まで日本列島なんということか・・・。
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
8月9日墨盒書道展の反省会が運営委員を中心に行われました。
委員長より会期中の概要が報告され、続いて会計担当より会計報告、二年後の第三回展を開催することとなり運営委員長は松本凞盦さん続投と全員一致、拍手で了承されました。ちなみに今回は6日間で見に来てくれた方は609名でした。
反省会の中で出されて主なる意見を要約します。
1.作品集がだいぶ残ってしまったが次回からは鑑賞者にもっと多く配布するようにする。
2.会場が出品作品に比べて狭かったような気がする。これについては来年の第一回運営委員会(4月に予定)のなかで出品点数を把握してから検討することにする。
3.名票の表記について
訓読(読み)、訳文(大意)を記入する。
4.終了時間を18時から17時に短縮したらどうか。
この時間帯入場者は減るが多忙な人がやりくりして来る時間でもある、検討事項とする。
5.会場内は原則、飲食は禁止であるがお茶を出した事例があった。禁止にした方がよいと思う。禁止の方向で検討する。
以上、雑ぱくな反省会の報告ですが引き続き展に関する会員の皆さんからのご意見をお寄せください。
雅書道塾通信 第127号・・・夏山の頂き立つ孫の顔(H30.8.1)
今年の夏はほんとに暑い、ついに7月23日には熊谷で41・1度の新記録をマークしました。以前中国旅行でトルファンに行ったときに市街地から東へ50キロ程いった砂漠の火焔山(孫悟空が火焔大魔王と戦った所=昔読んだ漫画西遊記から)と言うところがありましたが、そこの気温が43度でした。周囲の山々は赤茶色に焦げたような色で草木は1本も生えていません。
ちょっとマイクロバスから降りてみようということになりましたがガイドさんから「肌は出さないでください」といわれ手拭いを被って降りました。それでもわずかに出ている顔、腕の肌に直射日光が当たるとびりびりちくちくと刺さるような痛みを感じ何とも言えぬ怖さを感じました。長くさらしているとやけどをすると言われそそくさとバスに戻りました。今回の熊谷の新記録はその気温に近づいていました。命にかかわる暑さ、災害の範疇だというのもうなずけます。
7月下旬に高崎シティギャラリーで良寛展が開かれていました。が残念ながら所用で見に行けませんでした。もっとも良寛さんの字は直筆を含めて何度か拝見しています。最初は現職の頃、職場の旅行で見に行きました。続いて新潟の弟の案内で良寛記念館へ、そして藤岡市書道協会の研修旅行で2度、2度目は良寛の終の棲家となった木村家に寄せて貰い当主木村氏の話を伺いながら六曲一双屏風作品を始め浴びるほどの作品を拝見さえていただきました。
良寛さんを簡介すると、1758年新潟県出雲崎の名主山本家の長男として生まれています。18歳の時名主見習いとなり父の仕事を助けています。しかし複雑な家庭事情があったようですが性格的に名主には向かないと考えたのか弟に家督を継ぎ22歳の時得度を受け備中高島(現倉敷市)円通寺で禅の修行に入りました。
34歳の時恩師国仙和尚が亡くなり、諸国行脚の旅に出ました。それから約5年、木曽路、善行寺、北陸道を経て故郷出雲崎に帰ってきます。40歳で五合庵に住み始めます。このころから各地の名士たちが五合庵に集まり歌会など開いたり、既に亡き父次郎左衛門(俳号以南)の追善句集など刊行しています。45歳の時、国上寺の住職が退隠して五合庵に入ることになり良寛さんは国上や野積の寺を住居としながらも五合庵で歌会などは続けています。その後退隠した住職がなくなり良寛さんが再び五合庵に住むことになります。47歳でした。
52歳のとき、江戸に住んでいた儒学者亀田鵬齋が五合庵を訪れ良寛の草書作品を嘆賞したと記録されています。ちなみに亀田鵬齋は書にも堪能で揮毫した碑が全国に45基もあるそうです。都内には16基ありますが泉岳寺にある「赤穂四十七義士碑」が有名です。鵬齋は良寛に会って書風がすっかり変わったという話がありますが実際「良寛に会って草書の妙を知った。良寛を学んで自分の書の風格ができた」と語ったそうです。鵬齋は良寛より6歳ほど下ですがその後も詩、画賛などで交流を続けていました。
良寛さんは1831年に親しい人たちに見守られながら木村家で永眠、享年74歳でした。
さて、一番関心のある良寛さんの字についてですが、以前「この字は上手なの?」とか「鑑賞する字で習うものではない」などの言葉を聞いたことがあります。とても自分には批評などできませんが感じるところはその線の質と作品の明るさです。深く理解するには良寛さんの生き方まで及ばなければなりません。学ぶにはまず懐素の千字文から臨書を始めてみるのが良いでしょう。
7月下旬に高崎シティギャラリーで良寛展が開かれていました。が残念ながら所用で見に行けませんでした。もっとも良寛さんの字は直筆を含めて何度か拝見しています。最初は現職の頃、職場の旅行で見に行きました。続いて新潟の弟の案内で良寛記念館へ、そして藤岡市書道協会の研修旅行で2度、2度目は良寛の終の棲家となった木村家に寄せて貰い当主木村氏の話を伺いながら六曲一双屏風作品を始め浴びるほどの作品を拝見さえていただきました。
良寛さんを簡介すると、1758年新潟県出雲崎の名主山本家の長男として生まれています。18歳の時名主見習いとなり父の仕事を助けています。しかし複雑な家庭事情があったようですが性格的に名主には向かないと考えたのか弟に家督を継ぎ22歳の時得度を受け備中高島(現倉敷市)円通寺で禅の修行に入りました。
34歳の時恩師国仙和尚が亡くなり、諸国行脚の旅に出ました。それから約5年、木曽路、善行寺、北陸道を経て故郷出雲崎に帰ってきます。40歳で五合庵に住み始めます。このころから各地の名士たちが五合庵に集まり歌会など開いたり、既に亡き父次郎左衛門(俳号以南)の追善句集など刊行しています。45歳の時、国上寺の住職が退隠して五合庵に入ることになり良寛さんは国上や野積の寺を住居としながらも五合庵で歌会などは続けています。その後退隠した住職がなくなり良寛さんが再び五合庵に住むことになります。47歳でした。
52歳のとき、江戸に住んでいた儒学者亀田鵬齋が五合庵を訪れ良寛の草書作品を嘆賞したと記録されています。ちなみに亀田鵬齋は書にも堪能で揮毫した碑が全国に45基もあるそうです。都内には16基ありますが泉岳寺にある「赤穂四十七義士碑」が有名です。鵬齋は良寛に会って書風がすっかり変わったという話がありますが実際「良寛に会って草書の妙を知った。良寛を学んで自分の書の風格ができた」と語ったそうです。鵬齋は良寛より6歳ほど下ですがその後も詩、画賛などで交流を続けていました。
良寛さんは1831年に親しい人たちに見守られながら木村家で永眠、享年74歳でした。
さて、一番関心のある良寛さんの字についてですが、以前「この字は上手なの?」とか「鑑賞する字で習うものではない」などの言葉を聞いたことがあります。とても自分には批評などできませんが感じるところはその線の質と作品の明るさです。深く理解するには良寛さんの生き方まで及ばなければなりません。学ぶにはまず懐素の千字文から臨書を始めてみるのが良いでしょう。
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