2019年1月6日日曜日

雅書道塾通信 第132号・・・若き医師 風邪に注意と 診るたびに(H31.1.1)

明けましておめでとうございます。
平成も最後の年となりました。しかもあと4ヶ月、しかし昭和から平成に変わったときよりも淡々と時が流れているように感じます。2019年、果たして新元号はなんと命名されどのような文字で発表になるのでしょうか。
今年は十二支で言うと12番目「()動物は猪が充てられています。干支で言うと「()(がい)つちのとい」です。
十干は日を数える方法、十二支は月を数える方法として三千数百年前殷の時代から使われていました。十二支による時刻は日本でも明治時代まで使われていました。24時間を12に分けたもので、一時(いっとき)が二時間になります。
十二支が動物の名前と結びついたのは漢代です。身近な動物だけに親しみやすくなりました。
沼田市利根町にある老神温泉は干支に関係のある温泉地のようです。赤城山の蛇の神と、日光・男体山のむかでの神が戦ったときに、赤城の蛇の神が見つけてその傷を癒やしたと言われる温泉です。ホテルにある露天風呂に「(うま)の湯」「巳の湯」などと命名してあります。

さて、日本が地震国、災害列島であると認識させられたのが今から24年前の「阪神淡路大震災」猪年でした。その年平成7年は「地下鉄サリン事件」があり「東京都知事に青島幸男」「大阪府知事に横山ノック」など異色な人が選ばれ、内閣総理大臣には「村山富市」がなっています。
今年はどんな年になるでしょうか。春に統一地方選挙、夏には参議院選挙があります。候補者の喋る「ことば」に惑わされること無く、「おこない」をよく見極めて清き一票を投じましょう。

15日から一閑堂で木附渓山さんの第二回ハガキ展が開かれています。
書にとって用筆法即ち筆遣いの技術はとても大事です。これは一生追究していかなければなりません。しかし木附さんの作品はそこから一歩突き抜けた感のする書です。自分自身の好きなことばを思うがままに書き、自分で額表装して仕上げています。
小さな展覧会ではありますが質の高い「こころの書・展覧会」です。210日(日)まで、70点ほど展示されています。

前号で紹介をした「顔真卿展」がはじまります(1月16日~2月24日)。
日本初公開の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」が今回展の注目作品ですが展全体を通して学べるのは、書体の変遷や顔真卿の人物像、その後の書家に与えた影響また唐の書が流入した奈良時代遣唐使と共に唐に渡った空海や最澄、橘逸勢などが活躍した平安時代、その他、顔真卿に限らず唐の四大家が日本に与えた影響など書を学ぶ者にとっては必要性のある内容満載の展覧会であります

雅書道塾通信 第131号・・・裸木の すべて落した いさぎよさ(H30.12.1)


“歳月は人を待たず”また12月を迎えました。
ことしは塾関係でも展覧会の多い年でした。3月には藤岡市民展、6月は藤岡市書道協会40周年記念展・墨盒書道展、10月には藤岡市文化協会芸術祭と3ヶ月に一回のペースでした。また春、秋と二度の昇格試験がありました。お忙しい中それぞれに出品、受験された生徒の皆さんお疲れ様でした。


会員の武井さんから第一報を頂きましたが、来年の116日(水)から224日(日)まで東京国立博物館平成館にて「(がん)(しん)(けい)」展が開催されます。
顔真卿(709景龍3年~785貞元1年、77歳没)は初唐の三大家、欧陽詢(おうようじゅん)()(せい)(なん)褚遂(ちょすい)(りょう)から遅れること約半世紀中唐時代に活躍した官僚・政治家・軍人・詩人そして書を能くした人です。
顔真卿はそれまでの王羲之を祖として発展してきた書に新たな流れを作った元祖とも言うべき人です。
後の時代の書にも大きく影響を与えたと言う意味で顔真卿の書は革新的であったと言えるし第二の王羲之と評価される所以でもあります。
なぜそこまで評価されるのか、今回の特別展では顔真卿が生きた時代、置かれた立場、生き様などを知ることができ、強烈で個性的な書がなぜ生まれたか背景を知ることができると思います。
今回の特別展の目玉になっているのが台北故宮博物院藏の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)の直筆です。
顔真卿は玄宗皇帝に仕え、安禄山の変などで衰えゆく大唐帝国を支えた忠臣ですが、義に殉じた烈士としても讃えられています。その戦いのなかで亡くなった甥の「季明」に対する祭文(この際は弔辞)の原稿が祭姪文稿です。碑などに書かれた正式な書と違って弔辞の下書きとして書かれたものでその時の心情が表れており、また訂正した箇所なども生々しく正に構えずに書いた書として現在に至るまで行書の名品として書道史に名を残しています。
故宮博物院から出て、初めて海外で展示するのだそうです。顔真卿はその生涯を振り返ると簡単に筆先だけで真似をすることはできない厳しさを感じます。ましてや「祭姪文稿」は弔辞、その本質を誤りなくくみ取って学ぶことが大切です。

雅書道塾通信 第130号・・・あぜ道へ垂れて揃いし黄金の穂(H30.11.1)


10月下旬から晴れの日が続き朝夕は冷気を感じるようになりましたが、抜けるような青空に見とれてしまいます。秋まっただなか、澄んだ空気がおいしく感じられます。
さて、前号の続きです。行書の学習には必須古典と言われる「集字聖教之序(しゅうじしょうぎょうのじょ)、当塾でも現在5名の方が学んでいます。集字とは文字通り文字を集めと言うことで、この序(碑)は王羲之の字を集めて作られたものです。「集字聖教之序」は別名「集王聖教之序」「集王書聖教序」「()(にん)集王聖教序」「七仏(しちぶつ)聖教序」とも呼ばれています。碑の高さは350センチ、幅113センチ、行書で30行、行ごとの字数は8586字、全文で1904字あります。唐の高宗(こうそう)時代672年に当時の都長安(今の西安市)の弘福寺に建てられました。現在は西安碑林に保存されています。
この碑の1行目に「大唐三蔵聖教序(だいとうさんぞうしょうぎょうじょ)」とあるのがこの文章の題名です。「聖教」とは[西遊記]でお馴染みの三蔵法師玄奘(げんじょう)602664)がインドから持ち帰って漢訳した仏典のこと。「聖教之序」とはその冒頭に置かれた序文のことです。碑の2行目「太宗文皇帝製」がこの文章の作者を示します。唐の第二代皇帝李世民(太宗)のことです。そして3行目、「弘福寺ノ沙門(しゃもん)()(にん)、晋ノ右将軍(ゆうしょうぐん)王羲之(おうぎし)ノ書ヲ集ム(弘福寺の僧侶懐仁が王羲之の書蹟の文字を集めとあります
すなわち、唐の三蔵法師がもたらし翻訳した仏典にたいして、太宗が序文を書き弘福寺の僧懐仁が王羲之の書蹟の文字を集めてこの碑を作ったと言うことになります。
全文を五つの章に分けることができます。
    冒頭の「蓋聞二(けだしきくに)()有像(にぞうあり)」から「与乾坤而(けんこんとともに)永大(えいだいならんことを)」までの781字が太宗皇帝による序文です。
    つづく「朕才謝珪璋(ちんさいはけいしょうにおとり)」から「空労致謝(むなしくちしゃをわずらわさん)」まで63字は玄奘三蔵が序文を頂いて謝意を述べた時の太宗の言葉です。
    このとき皇太子であった高宗もあわせて記を作ってくれたのですがそれが次の「在春宮述(しゅんぐうにありて)三蔵(さんぞう)聖記(せいきをのぶ)(それ)顕揚(せいきょうを)正教(けんようするは)から以為斯記(もってこのきとなす)」までの579字。
    高宗に対する玄奘の謝意に答書した文が「治素(ちもとより)無才学(さいがくなく)」から「深以為愧(ふかくもってはじとなす)」までの50字。
    最後に、玄奘が新たに漢訳した「般若波羅密多心経」と立碑に携わった人々、建碑の年月日など431字があります。
ではこれらの文字は王羲之のどのような原蹟から集めたのでしょうか。最も採られている字が多いのは「蘭亭序」です。58字(48字という説もあり)使われているようです。そのほかでは喪乱帖などの手紙文や集帖など沢山の資料が使われていると想像できます。集字を始めてから建立されるまで実に25年の歳月を要しています。種々の墨蹟の字は大小様々ですし拡大したり縮小したり、ない文字も当然出てきますから、作字をしなければなりません。扁と旁を組み合わせるなどして作り上げています。文字のくずし方なども前後左右とのバランスを考えなければなりません。写真、複写など印刷技術のない時代に相当な労力と時間が必要だったことは想像できます。
一つの古典を臨書する時、その碑の由来など調べるとより深く学べることができるでしょう。