2019年9月16日月曜日

雅書道塾通信 第138号・・・今朝も雨妻のつぶやき梅雨長し(R1.8.1)

参議院選挙も終わりました。投票率が選挙区で48.80%でした。全有権者の半分にも届かない。その中で政権与党の比例区での得票率が35.4%、ほかの政党より支持率は高井とはいえ全有権者数の17.2%です。社会生活をしている以上どの政党を選ぶにせよせっかく手にしている一票、無駄にはしない政治意識を普段から有権者としては持ちたいものです。

先日同級生に誘われて東京国立博物館で開催されている「三国志展」を観てきました。若いころ吉川英治著の三国志を読んでわくわくしたことや書を通して中国の歴史に興味を持たざるを得なかったことなどを鑑み、また同級生に遭える楽しみも含めて1日遊んできました。
 前回の通信137号で日本にはいつごろ文字が入ってきたかと言う話をしましたが「三国志展」で「卑弥呼」と魏国との接点が紹介されていました。
卑弥呼は170年生(?)248年没、当時の日本は倭国といい数十の国々からなっていたと言います。時は弥生時代、中国から渡ってきたコメ作りの技術で農業が盛んになってきたころです。米作の普及とともに一定の土地に集団で住みつく村制度が確立しました。同時に水利や土地を目当てに争いが始まりました。卑弥呼はそれを納めていったとあります。中国の歴史書「魏志倭人伝」に紹介されている「卑弥呼」は「まじない」や「占い」にたけておりその力をもって「邪馬台国」を治めたとあります。また卑弥呼は当時の中国で最も勢力のあった「魏」の国に使者(239年)を送って交流を深め魏の皇帝に「親魏倭王」の称号と「銅鏡100枚」を賜ったと記されており「魏」国をうしろだてにして諸国の長に銅鏡を送り勢力を広めたとあります。展示会会場には権力者の象徴である銅鏡が10点ほど展示されていました。
 ところで魏国に使者を送り交流を深めていった卑弥呼は文字を使いこなせていたのでしょうか。魏王朝と卑弥呼との間には国交文書の往復があり文字を使いこなせたと思いがちですがその証拠はありません。漢文で書かれてあった外交文書はそれ専門の起草者がいたというのが定説になっています。しかもそれは倭語を理解できる中国人か朝鮮人、または漢字・漢文に習熟した渡来人だったと言われています。紀元前後から卑弥呼の時代に至るまで中国や半島からおびただしい数の文物が移入されたことは想像できますがこの時代、倭人が文字を使って言葉を伝達したのかの確たる証拠はまだないようです。
 一方、既に日本人独自のことばで固有の文字は存在していたという説もあります。その一つが二世紀末から三世紀中ごろのものと言われる「墨書土器」です。発掘された土器に残されている文字らしきものや記号、絵などがかきこまれているものです。こちらは今後の新発掘・解明が待たれます。もう一つは「神代文字」と呼ばれるものですがこれは今のところ確証はないようです。
それにしても「卑弥呼」とは不思議な女性、数十に乱立し各地で争いが起こり大きく乱れていた地域を治め、魏の国と交流し大陸文化を取り入れた行動力と統治能力、巫女として神の意思を聴くことにたけており「魏志倭人伝」の一節には、「千人の従女に身の回りの世話をさせて部屋に入れたのは一人の男性だけ、「まじない」「うらない」の結果をその男性を通じて人々に伝え政治を行った」とあります。
卑弥呼は女王として「邪馬台国」を支配しましたが「邪馬台国」の所在は九州北部か近畿地方か二つの説があり現在のところ正確な場所はわからないようです。また文字の存在を知ってもそれを使うようになるにはそれなりの期間がかかることは容易に想像できます。卑弥呼没し時代は大和へと進みます。

雅書道塾通信 第137号・・・薄闇に半夏生あり雨戸引く(R1.7.1)

今年も半分過ぎました。7月と言うのにどんよりとした毎日です。農作物が心配です。
 今月は知事選、参議院選があります。
 ところで、「ことば」は言霊とも言われ、優れた不思議な力を持っています。落ち込んだり迷ったりしたとき、ふとした言葉に巡り合って励まされ勇気づけられることもあります。読書をするのも生き方の指標になることばを求めている場合が少なくありません。
 ところがこの「ことば」使いようによっては人々をたぶらかすこともできます。その最たるものが甚大な被害がでている「オレオレ詐欺」のたぐいでしょう。おりしも選挙戦真っただ中、演説を聞いていると実に言葉が巧みです。功罪のある「ことば」だけに騙されないよう社会の現状を認識し、その人の行いを見て判断することが肝要です。

 先日会員から「日本にはいつ頃漢字が入ってきたのでしょうか」と聞かれました。残念ながら日本に文字が伝来した時期ははっきりとはしていません。しかし「多分その頃でしょう」とは書かれています。大雑把ですが、紀元前後をはさんだ弥生時代の人々もすでに大陸に文字なるものがあることは知っていたようです。中国に「漢書」という歴史書がありますがその中に当時の日本と大陸(今の朝鮮半島地域で後漢の郡であった楽浪郡)との交流があったと記されています。紀元後57年になると倭(日本)の奴の国(北九州の小国)から後漢の光武帝(後漢初代皇帝)に使者が送られたとあります。その証明になったのが1784年に福岡県で発見された「漢委奴国王」の金印です。その後も日本と楽浪郡、並びに後漢との交流は続きて徐々に文字世界にも広がっていったものと思います。したがって日本に文字が入ってきたのは紀元前後にぼつぼつと浸透してきたと理解してよいのでしょう。当時の日本では文字を必要とする場合は漢人や韓人が右筆として務めていたようです。