2017年6月11日日曜日

雅塾通信 第114号・・・生き延びるドクダミ草の根の強さ(H29.6.1)

連休明けに例年通りニガウリの苗を4本買ってきて植えました。天候も湿りがちの日が続き水やりをすることもなくすくすくと育つのを横目に眺めていました。蔓も元気よく添え木に巻き付き始めたので苗の上に下がっているすだれを巻き上げながら近づいてみると手前から三番目の苗の葉がなんとなく元気がなさそうなのでさらに寄ってみると葉に3つの大きな穴があいていました。
葉の上にはダンゴムシが二匹・・・ダンゴムシ?が、ちょっと迷いましたが現行犯だ!と丸まったダンゴムシを処分しました。その後野菜を作っている同級生が遊びに来たので「ダンゴムシはニガウリの葉を食べるかね?」と聞いたら「さぁ~、食わねえだろう」と言いました。
今頃ダンゴムシは「冤罪だ!」と怒っているだろうか、真相を突き止めたい気持ちです。

5月28日(日)”瓦で遊ぼう”の講習会が開かれました。
飯島俊城先生を講師にお招きして凞光書道塾と合同で藤岡瓦を作るのと同じ土を使って書道用具を作りました。
墨床、水滴(水盂)、香炉、筆架、硯屏、小硯、小物入れ、犬(?)などなど沢山に用意された土が次々と思い思いの作品に仕上がっていく、みんな真剣で一生懸命、時々笑い声が入ってまさに童心に返った二時間余りでした。
 さて古来より書の世界には「文房四宝」という言葉があります。
「文房」とは書斎の事、「四宝」とは書をする上でなくてはならないもの、則ち「硯・筆・墨・紙」の四種の事で、書斎における宝物として大事にされてきました。この中でも王様と言われるのは硯です。ほかの三品は随時補充(中には美術工芸品としての価値があるものもあります)しますが硯は一生の友とも言われています。
 また、書をする上で必ずしも必要なものではありませんが、筆筒、筆洗、筆架、書鎮、水滴、硯屏の六品を四宝と合わせて「文房十友」と呼んでいます。
 その他にも書を取り巻く文房具には硯箱、印箱、印盒、筆吊、腕枕、怪石などなど愛玩物的要素の高いものもありますが、これらを愛でることによって多くの文人たちは環境を整え、鑑賞眼を、創作意欲をそして精神性を高めていったのでしょう。
 今回、自分自身で作った文具を机上に置き眺める事ができますが、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれません。

2017年6月4日日曜日

雅塾通信 第113号・・・丸刈りの畦に黒々キジ一羽(H29.5.1)

 藤岡公民館の二階にある書道教室の南側の窓から外を眺めると、駐車場には車がびっしり、道を挟んだ向こう側の市民ホールの駐車場もいっぱいの車、その西側のサッカー場には30人ほど御高齢の方がグランドゴルフに興じています。若葉を揺らしながら春の風がさわやかに流れ、真剣に筆を動かす教室は、物音ひとつしない静かな平和な空間です・・・一瞬、「ここへミサイルが飛び込んだら!」と想像してしまいました。この平和な空気はいっきに方向転換するだろう、と想像力は悪い方へ悪い方へと進みます。いろいろあるでしょうが、トップ同士の外交交渉を切に願うものです。

春は出会いの季節であるとともに初心に帰る良い時期です。書の基本事項について少し考えてみます。

手本について
 文化祭や市民展のとき、書作品を見に来た絵の関係者の方に何度か「この作品は自分で考えた作品ですか」と聞かれたことがあります。最初質問の意味が分からなかったのですが、これは手本があるのかどうかを聞きたかったようです。真似か創作家で評価の基準を作ろうとしたのでしょう。
 書には臨書という大事な学習方法があり、また師に手本を書いてもらいそれをまねることがあたりまえのようになっていますがそのあたりが絵の世界とは少し違うのかもしれません。
景色や物をみて「絵になる」などと評価することがありますが「字になる」とは言いません。このことは習う対象物が絵と書とでは全く違うということです。
 書は人間が必要として考え、作り上げた文字を書くのですから人の書いた古典や師の手本を真似することは仕方のないことです。もちろん書以外の芸術作品や自然の風物を書の手本として取り入れることはある意味大事ですが、本命はやはり人の書いた書そのものを手本にすることといえます。
 ここで手本には二種類あると考えなければいけません。ひとつは古典的な作品、もう一つは師を含めて近・現代人の作品です。
 古典的作品は、長い歳月にわたり、無数の人たちの鑑賞評価を経て、今まで生き残ったものでありますから現代人の手本よりは作品としては優れていると思います。しかし古典作品はもともと手本として書かれたものではなく、またその多くは石や木に刻されたものの拓本が多いので初心者には習いにくく難しいと思います。そこで師が書いた古典を参考にし、現代人の書かれたものをその時々の力に合わせて練習することが必要になってくるわけです。
 しかしこの段階はなるべく早くに卒業し自分の力で古典を習うことができるように努力をしたいものです。
 さらに言えば古典を習うことも最終目標ではなく、真の目標は自分自身の書風の確立と思います。手本なしで作品を仕上がることから始めなけらばなりません。この作業は苦しいけど楽しいものでもあります。
 ここで手本の弊害を一つ。手本を習うことはその型にはまることを目標にすることですから、時としえその人の才能を、良さを摘み取ってしまうこともあるのです。また一つの型にはまってしまうと次の段階、次の型へ向かって脱出することが容易でないということです。
 型というものは決して一つではないということも頭に入れておきたいことです。