超大型台風21号は、やはり日本列島に爪痕を残し、群馬にも道路崩壊、土砂・洪水の被害を与えていきました。災害に遭われた地域の、特に年配の方が「聞いたことも見たこともない初めての経験」と語る姿に自然界は大きく変化していると思わざるを得ませんでした。
10月6日から9日まで藤岡市の文化芸術祭が催されました。書、絵画、写真など8部門、162名の会員が出品しました。みんな一生懸命の作品で好感が持てます。会場セッティングから搬入・搬出まですべて会員がおこない和気あいあいとした雰囲気は地域のつながりも生まれ良いものです。ご苦労様でした。
24日、知人の岩浪健一こと希夷齋氏の初個展を拝見してきました。日本橋にある「小津和紙」小津ギャラリーで篆刻・刻字を中心とした作品展です。岩浪氏の細密印はその世界では知る人ぞ知る人物です。蠅頭印(極めて微細なもの)による般若心経分刻、蘭亭序全文刻印、遊印100顆、刻字作品20点、印譜集などまさに岩浪氏の全貌を明らかにする展観で、伝統を踏まえ、ぶれないその清清しい作製態度、生き様が胸に逼り、見の覚めるような展覧会でした。
「紙がなくとも字は習える」電車に乗ってぼんやり外を眺めていたら、昔、山口先生がおっしゃっていた目習いという言葉を思い出しました。展覧会で良い字を見たりするのも勉強だし、指や棒のようなものを使ってなぞって書くのも練習、したがってどこにいても字は習えると言うことでした。
この練習方法は昔からなされていました。いわゆる「空臨・空書」と言われるものです。古くは魏の鐘繇も取り入れていたといわれています。多忙で筆を執って書く時間が少ないため、ちょっとした暇を見つけては地面に書いたり、空に向かって書いたりしたと記録にあります。また唐の虞世南は寝床に入ってから腹に書いたとか、日本では良寛が毎朝大空に向かって腕を振るって書いたとか、近年では会津八一がステッキをもって書いたという逸話も残っています。
本場中国では昔から書の名人たちが碑帖を臨書するのにこの方法を使ったそうです。文字通り空書によって臨書することです。しかも空臨の本来の意味は手本とする碑帖を見ないで臨書することを言うらしい。したがって自分の頭の中に自分が普段習っている碑帖の字の様子が浮かばないといけない。手本を見ないで手本の字を思い出してみる。手本を見て書いてばかりではいけない、大切なことは思い出してみる事なのです。そして空書してみる、又手本を見返す、また空書する。その繰り返しで手本の字を暗記し、手本の字が自分のものとなる。と言うのが空臨・空書の本来の目的、意義なのです。これは手本を見ないで臨書する「背臨=暗書」への準備ともなります。