過ごしやすいと言っては変ですが例年に比べてじりじりとした暑さのない8月でした。もう朝夕は季節の変わり目を感じます。
戦後72年、今夏、テレビの戦争に対する報道がとりわけ生々しかったように思います。それは米国など国外からの映像や高齢化した戦争体験者の証言によるものでしょう。これを歴史上の出来事として眺めるのではなく現代社会と照らし合わせて考えることが必要です。
戦争の影は知らぬ間に近くに寄ってくるものです。そして理屈をつければ戦争は正しくなってしまうものです。
さて書を習う人にとって漢字と書の歴史を学ぶ事は大切なものと常々思っていますがそんな思いにぴったりの展覧会が”漢字三千年の歴史展”でした。
資料としての数は決して多くはありませんでしたが、甲骨文・金文・帛書・竹簡木簡などの本物を目にすることができ漢字の変遷が分かりやすく展示されていました。見ていく中で新しい発見もありました。
甲骨文の文字は、占いが終わった後に記入したものであるということ、青銅器にある金文は彫ったものか、鋳造したものか、の疑問は今回ではっきりとしました。当時は青銅器より硬い刃物はなく、青銅器の内側の狭いところに文字を刻むことなどは不可能との説明でした。書物などで金文を紹介する文章に「金文は青銅器の内側に刻されている文字」などと解説されているものが多いため、刻した=彫った、と理解してしまいやすいようです。
青銅器の文字は凹型がほとんどですが今回は凸型文字の青銅器がひとつありました。珍しいもので特別に依頼をして借りてきたのだそうです。凹型が多いのは文字の摩滅を防ぐためとか・・・。
紙が発明される以前に使われていた絹に書かれた文字がありました。竹や木片書くのからみればだいぶ便利です。それは帛書と言いますが紀元前、漢の時代からすでに養蚕はあったということです。帛書は千年ぐらい保存できるといわれてますがこの帛書は二千五百年前のもの、真空パックされていますが空気に触れると粉々になってしまうそうです。
珍しい墓誌名がありました。遣唐使として中国で客死した、「井 真成」の墓誌名です。病に侵され36歳で没したとあります。遣唐使を大事に扱っていた証明になります。碑文の中に日本という字が載っていました。当時は倭の国とか扶桑とか呼ばれるのが一般的だったらしい。
ところで過去の中国では漢字は実際に一部の特権的階級の人たちだけのものでした。それが人民共和国になって一般人いわゆる労働者・農民など圧倒的多数の人たちに漢字文化を広げるための政策として簡体文字を作り正規な文字として取り入れました。学校教育の場で教え、公式文書、新聞雑誌、書物の印刷などに広く使って定着させてきました。更には表意文字である漢字を世界共通の表音文字に改めようとして「漢語拼音法」を文字改革の第一歩としたようですがこれはあくまで漢字に対する補助的な道具としての役割を持つことにとどまりました。ちなみにこの拼音は中国語を学ぶ時の発音記号として使われています。この簡体字は展示してありませんでした。
2017年10月9日月曜日
雅塾通信 第116号・・・久方の自転車軽し夏の風(H29.8.1)
夏休みに入り小学校前の我が家は、静かすぎてさみしいくらい、特に朝夕は登下校生徒が見えなくてなんとなく時間の経過にメリハリがつきません。
終戦から今年で72年目の夏を迎えました。マスメディアは例年のことながら平和に関する記事をたくさん取り上げてくれるでしょう。今年は特に・・。「秘密保護法」「安保法」「共謀罪法」の一連の法案も成立し、いよいよ憲法が政治日程に上がってきました。
未来を託す子供たちに残せるものは何か、一歩も二歩も踏み込んだ思考力が今の時代には求められています。
7月は三つの書展を見ました。
いずれも知人が絡んでいる書展ですが、最初に鑑賞したのは「白玄会」。故山本一聿先生が築いた会で墨像を主体としています。二年に一度の開催ですがレベルの高い臨書作品がたくさん出品されていました。その他、かな・近代詩文・漢字作品などバラエティに富んでいて見ごたえがありました。その中で墨像は三分の一くらいの数でした。
続いては伊勢崎市の「書道協会展」、これも二年に一度の開催ですが、167名の出品でした。墨盒展の仲間である中島先生、若林さん、羽尾さん、荻原さんなどの作品もありました。
三つめは高崎書道会の「第30回記念国際交流書展」、于右任書法で知られ、中国・台湾との交流を盛んに行っている会で、私も毎回鑑賞させてもらってます。
中国・台湾から60名、会員196名という大勢の作品が高崎シティギャラリーの第一、第二会場、それに予備室を埋め尽くしていました。
展覧会を見にいくのは刺激を受けることが大きな目的ですが、と同時にいろいろな人に会い会話をすることも楽しみの一つです。漢字一つ書くのでも様々な表現があり、人と同じく十人十色、ただ質の高さだけは求め続けるものだと痛感しています。
書の世界に「九生法」という言葉があります。若干抽象的ではありますが、字を書く際にその書字を生命的なものにするための条件です。その中の五つを上げてみます。
「生硯」硯は使い終わったら洗滌して乾かす。
「生水」硯に長いこと汲み置いた水を使ってはいけない。新しい水が良い。
「生墨」必要に応じて磨墨する。
「生神」気持ちを集中して気を鎮め、心をいらだたせて騒がせてはならない。
「生景」空が晴れ渡り空気も澄んでいれば、人の心ものびのびと楽しい、このような時は筆を執るのに適切である。
終戦から今年で72年目の夏を迎えました。マスメディアは例年のことながら平和に関する記事をたくさん取り上げてくれるでしょう。今年は特に・・。「秘密保護法」「安保法」「共謀罪法」の一連の法案も成立し、いよいよ憲法が政治日程に上がってきました。
未来を託す子供たちに残せるものは何か、一歩も二歩も踏み込んだ思考力が今の時代には求められています。
7月は三つの書展を見ました。
いずれも知人が絡んでいる書展ですが、最初に鑑賞したのは「白玄会」。故山本一聿先生が築いた会で墨像を主体としています。二年に一度の開催ですがレベルの高い臨書作品がたくさん出品されていました。その他、かな・近代詩文・漢字作品などバラエティに富んでいて見ごたえがありました。その中で墨像は三分の一くらいの数でした。
続いては伊勢崎市の「書道協会展」、これも二年に一度の開催ですが、167名の出品でした。墨盒展の仲間である中島先生、若林さん、羽尾さん、荻原さんなどの作品もありました。
三つめは高崎書道会の「第30回記念国際交流書展」、于右任書法で知られ、中国・台湾との交流を盛んに行っている会で、私も毎回鑑賞させてもらってます。
中国・台湾から60名、会員196名という大勢の作品が高崎シティギャラリーの第一、第二会場、それに予備室を埋め尽くしていました。
展覧会を見にいくのは刺激を受けることが大きな目的ですが、と同時にいろいろな人に会い会話をすることも楽しみの一つです。漢字一つ書くのでも様々な表現があり、人と同じく十人十色、ただ質の高さだけは求め続けるものだと痛感しています。
書の世界に「九生法」という言葉があります。若干抽象的ではありますが、字を書く際にその書字を生命的なものにするための条件です。その中の五つを上げてみます。
「生硯」硯は使い終わったら洗滌して乾かす。
「生水」硯に長いこと汲み置いた水を使ってはいけない。新しい水が良い。
「生墨」必要に応じて磨墨する。
「生神」気持ちを集中して気を鎮め、心をいらだたせて騒がせてはならない。
「生景」空が晴れ渡り空気も澄んでいれば、人の心ものびのびと楽しい、このような時は筆を執るのに適切である。
雅塾通信 第115号・・・父の日や久しく孫と長電話
藤岡市文化協会創立40周年記念研修旅行に参加しました。バス1台による東京見物日帰りコースです。見学場所を簡単に紹介します。
国立としては日本で最初の東京国立近代美術館は書の収蔵品はありませんでしたが藤田元嗣画伯のサイパン島玉砕の油絵は縦2メートル以上横5メートル以上あるかと思われる大作でした。その生々しさに暫く動けませんでした。脳裏から消えない一枚です。
お台場にある“グランドニッコウー東京台場の日本料理店“大志満”は入り口に、今 東光筆による「大志満」の作品が展示してありました。骨太のゆったりとした感じの良い作品でした。ちなみに全ての部屋にそれぞれの雰囲気に応じた書が展示してあるようでした。
メニューは:お小昼重と命名してあり、米・食材は良好でしたが味が極端に薄く、醤油を所望していた人もいました。加賀料理とありましたが石川県は薄味なのでしょうか。
最後に旧古河庭園を散策しました。明治の元勲:陸奥宗光の邸宅だったそうですがその後宗光の次男が古河家の養子になった時、古河家のものとなったそうです。石造りの邸宅は重厚で独特、見応えがありました。
ちなみに都立文化財庭園は9つある(浜離宮恩寵庭園・旧芝離宮恩寵公園・小石川後楽園・六義園・旧岩崎邸庭園・向島百花園・清澄庭園・旧古河庭園・殿ヶ谷戸庭園)そうです。小生はまだ4ヶ所きり見ていませんが、東京という密度の濃い大都市のなかで、自然に恵まれた貴重な空間として保存したい場所です。
2017年6月11日日曜日
雅塾通信 第114号・・・生き延びるドクダミ草の根の強さ(H29.6.1)
連休明けに例年通りニガウリの苗を4本買ってきて植えました。天候も湿りがちの日が続き水やりをすることもなくすくすくと育つのを横目に眺めていました。蔓も元気よく添え木に巻き付き始めたので苗の上に下がっているすだれを巻き上げながら近づいてみると手前から三番目の苗の葉がなんとなく元気がなさそうなのでさらに寄ってみると葉に3つの大きな穴があいていました。
葉の上にはダンゴムシが二匹・・・ダンゴムシ?が、ちょっと迷いましたが現行犯だ!と丸まったダンゴムシを処分しました。その後野菜を作っている同級生が遊びに来たので「ダンゴムシはニガウリの葉を食べるかね?」と聞いたら「さぁ~、食わねえだろう」と言いました。
今頃ダンゴムシは「冤罪だ!」と怒っているだろうか、真相を突き止めたい気持ちです。
5月28日(日)”瓦で遊ぼう”の講習会が開かれました。
飯島俊城先生を講師にお招きして凞光書道塾と合同で藤岡瓦を作るのと同じ土を使って書道用具を作りました。
墨床、水滴(水盂)、香炉、筆架、硯屏、小硯、小物入れ、犬(?)などなど沢山に用意された土が次々と思い思いの作品に仕上がっていく、みんな真剣で一生懸命、時々笑い声が入ってまさに童心に返った二時間余りでした。
さて古来より書の世界には「文房四宝」という言葉があります。
「文房」とは書斎の事、「四宝」とは書をする上でなくてはならないもの、則ち「硯・筆・墨・紙」の四種の事で、書斎における宝物として大事にされてきました。この中でも王様と言われるのは硯です。ほかの三品は随時補充(中には美術工芸品としての価値があるものもあります)しますが硯は一生の友とも言われています。
また、書をする上で必ずしも必要なものではありませんが、筆筒、筆洗、筆架、書鎮、水滴、硯屏の六品を四宝と合わせて「文房十友」と呼んでいます。
その他にも書を取り巻く文房具には硯箱、印箱、印盒、筆吊、腕枕、怪石などなど愛玩物的要素の高いものもありますが、これらを愛でることによって多くの文人たちは環境を整え、鑑賞眼を、創作意欲をそして精神性を高めていったのでしょう。
今回、自分自身で作った文具を机上に置き眺める事ができますが、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれません。
葉の上にはダンゴムシが二匹・・・ダンゴムシ?が、ちょっと迷いましたが現行犯だ!と丸まったダンゴムシを処分しました。その後野菜を作っている同級生が遊びに来たので「ダンゴムシはニガウリの葉を食べるかね?」と聞いたら「さぁ~、食わねえだろう」と言いました。
今頃ダンゴムシは「冤罪だ!」と怒っているだろうか、真相を突き止めたい気持ちです。
5月28日(日)”瓦で遊ぼう”の講習会が開かれました。
飯島俊城先生を講師にお招きして凞光書道塾と合同で藤岡瓦を作るのと同じ土を使って書道用具を作りました。
墨床、水滴(水盂)、香炉、筆架、硯屏、小硯、小物入れ、犬(?)などなど沢山に用意された土が次々と思い思いの作品に仕上がっていく、みんな真剣で一生懸命、時々笑い声が入ってまさに童心に返った二時間余りでした。
さて古来より書の世界には「文房四宝」という言葉があります。
「文房」とは書斎の事、「四宝」とは書をする上でなくてはならないもの、則ち「硯・筆・墨・紙」の四種の事で、書斎における宝物として大事にされてきました。この中でも王様と言われるのは硯です。ほかの三品は随時補充(中には美術工芸品としての価値があるものもあります)しますが硯は一生の友とも言われています。
また、書をする上で必ずしも必要なものではありませんが、筆筒、筆洗、筆架、書鎮、水滴、硯屏の六品を四宝と合わせて「文房十友」と呼んでいます。
その他にも書を取り巻く文房具には硯箱、印箱、印盒、筆吊、腕枕、怪石などなど愛玩物的要素の高いものもありますが、これらを愛でることによって多くの文人たちは環境を整え、鑑賞眼を、創作意欲をそして精神性を高めていったのでしょう。
今回、自分自身で作った文具を机上に置き眺める事ができますが、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれません。
2017年6月4日日曜日
雅塾通信 第113号・・・丸刈りの畦に黒々キジ一羽(H29.5.1)
藤岡公民館の二階にある書道教室の南側の窓から外を眺めると、駐車場には車がびっしり、道を挟んだ向こう側の市民ホールの駐車場もいっぱいの車、その西側のサッカー場には30人ほど御高齢の方がグランドゴルフに興じています。若葉を揺らしながら春の風がさわやかに流れ、真剣に筆を動かす教室は、物音ひとつしない静かな平和な空間です・・・一瞬、「ここへミサイルが飛び込んだら!」と想像してしまいました。この平和な空気はいっきに方向転換するだろう、と想像力は悪い方へ悪い方へと進みます。いろいろあるでしょうが、トップ同士の外交交渉を切に願うものです。
春は出会いの季節であるとともに初心に帰る良い時期です。書の基本事項について少し考えてみます。
手本について
文化祭や市民展のとき、書作品を見に来た絵の関係者の方に何度か「この作品は自分で考えた作品ですか」と聞かれたことがあります。最初質問の意味が分からなかったのですが、これは手本があるのかどうかを聞きたかったようです。真似か創作家で評価の基準を作ろうとしたのでしょう。
書には臨書という大事な学習方法があり、また師に手本を書いてもらいそれをまねることがあたりまえのようになっていますがそのあたりが絵の世界とは少し違うのかもしれません。
景色や物をみて「絵になる」などと評価することがありますが「字になる」とは言いません。このことは習う対象物が絵と書とでは全く違うということです。
書は人間が必要として考え、作り上げた文字を書くのですから人の書いた古典や師の手本を真似することは仕方のないことです。もちろん書以外の芸術作品や自然の風物を書の手本として取り入れることはある意味大事ですが、本命はやはり人の書いた書そのものを手本にすることといえます。
ここで手本には二種類あると考えなければいけません。ひとつは古典的な作品、もう一つは師を含めて近・現代人の作品です。
古典的作品は、長い歳月にわたり、無数の人たちの鑑賞評価を経て、今まで生き残ったものでありますから現代人の手本よりは作品としては優れていると思います。しかし古典作品はもともと手本として書かれたものではなく、またその多くは石や木に刻されたものの拓本が多いので初心者には習いにくく難しいと思います。そこで師が書いた古典を参考にし、現代人の書かれたものをその時々の力に合わせて練習することが必要になってくるわけです。
しかしこの段階はなるべく早くに卒業し自分の力で古典を習うことができるように努力をしたいものです。
さらに言えば古典を習うことも最終目標ではなく、真の目標は自分自身の書風の確立と思います。手本なしで作品を仕上がることから始めなけらばなりません。この作業は苦しいけど楽しいものでもあります。
ここで手本の弊害を一つ。手本を習うことはその型にはまることを目標にすることですから、時としえその人の才能を、良さを摘み取ってしまうこともあるのです。また一つの型にはまってしまうと次の段階、次の型へ向かって脱出することが容易でないということです。
型というものは決して一つではないということも頭に入れておきたいことです。
春は出会いの季節であるとともに初心に帰る良い時期です。書の基本事項について少し考えてみます。
手本について
文化祭や市民展のとき、書作品を見に来た絵の関係者の方に何度か「この作品は自分で考えた作品ですか」と聞かれたことがあります。最初質問の意味が分からなかったのですが、これは手本があるのかどうかを聞きたかったようです。真似か創作家で評価の基準を作ろうとしたのでしょう。
書には臨書という大事な学習方法があり、また師に手本を書いてもらいそれをまねることがあたりまえのようになっていますがそのあたりが絵の世界とは少し違うのかもしれません。
景色や物をみて「絵になる」などと評価することがありますが「字になる」とは言いません。このことは習う対象物が絵と書とでは全く違うということです。
書は人間が必要として考え、作り上げた文字を書くのですから人の書いた古典や師の手本を真似することは仕方のないことです。もちろん書以外の芸術作品や自然の風物を書の手本として取り入れることはある意味大事ですが、本命はやはり人の書いた書そのものを手本にすることといえます。
ここで手本には二種類あると考えなければいけません。ひとつは古典的な作品、もう一つは師を含めて近・現代人の作品です。
古典的作品は、長い歳月にわたり、無数の人たちの鑑賞評価を経て、今まで生き残ったものでありますから現代人の手本よりは作品としては優れていると思います。しかし古典作品はもともと手本として書かれたものではなく、またその多くは石や木に刻されたものの拓本が多いので初心者には習いにくく難しいと思います。そこで師が書いた古典を参考にし、現代人の書かれたものをその時々の力に合わせて練習することが必要になってくるわけです。
しかしこの段階はなるべく早くに卒業し自分の力で古典を習うことができるように努力をしたいものです。
さらに言えば古典を習うことも最終目標ではなく、真の目標は自分自身の書風の確立と思います。手本なしで作品を仕上がることから始めなけらばなりません。この作業は苦しいけど楽しいものでもあります。
ここで手本の弊害を一つ。手本を習うことはその型にはまることを目標にすることですから、時としえその人の才能を、良さを摘み取ってしまうこともあるのです。また一つの型にはまってしまうと次の段階、次の型へ向かって脱出することが容易でないということです。
型というものは決して一つではないということも頭に入れておきたいことです。
2017年5月15日月曜日
雅塾通信 第112号・・・暖かや 愛車の傷も治りくる(H29.4.1)
何事も基本は大切ですが、改めてそれでは書道の基本とはいったいなんでしょうか。最初に習う基本点画、永字八法などはもちろん基本中の基本ですがこれを完全にマスターしてから次と言うものでもありません。
今、当塾では古典の臨書を中心に勉強をしえいます。一言に古典と言ってもいつの時代までのものを古典と呼ぶのか、この位置づけは大事です。昔のものがなんでも古典かと言うとそうではありません。私見ですが唐代の書までが古典と言われるのにふさわしいような気がします。なぜなら王羲之の普遍的な文字を基本に据えて書かれた書がざっくり言ってしまえば唐代までだったからです。
唐代以降は個性が表面に出た書が多くなってきました。(古典を土台にした上ではあるが)。歴史と社会背景から必然に生まれたこれら個性的な作品は古典として学ぶには危険が伴います。しかし古典臨書と平行して創作作品を創っていく上では大いに参考になります。
今、雅塾で学んでいる古典は唐代までのそれが中心です。楷書では九成宮醴泉銘、行書では蘭亭序、集字聖教序、草書では書譜、隷書では乙瑛碑、曹全碑などの漢碑類です。基本とは日々これらの古典を学んでいることを言います。
ここで大事なのは基本ですから徹底的に真似をすることです。これを自分流で書いてしまうと基本から外れて我流の字になってしまいます。
したがって日々の練習の中に基本があるのです。基本を学びながら創作作品を創るときには好みに応じて古人の書かれた好きな作品の中からその筆法・構成を学び取るようにするのが良いと思います。
今、当塾では古典の臨書を中心に勉強をしえいます。一言に古典と言ってもいつの時代までのものを古典と呼ぶのか、この位置づけは大事です。昔のものがなんでも古典かと言うとそうではありません。私見ですが唐代の書までが古典と言われるのにふさわしいような気がします。なぜなら王羲之の普遍的な文字を基本に据えて書かれた書がざっくり言ってしまえば唐代までだったからです。
唐代以降は個性が表面に出た書が多くなってきました。(古典を土台にした上ではあるが)。歴史と社会背景から必然に生まれたこれら個性的な作品は古典として学ぶには危険が伴います。しかし古典臨書と平行して創作作品を創っていく上では大いに参考になります。
今、雅塾で学んでいる古典は唐代までのそれが中心です。楷書では九成宮醴泉銘、行書では蘭亭序、集字聖教序、草書では書譜、隷書では乙瑛碑、曹全碑などの漢碑類です。基本とは日々これらの古典を学んでいることを言います。
ここで大事なのは基本ですから徹底的に真似をすることです。これを自分流で書いてしまうと基本から外れて我流の字になってしまいます。
したがって日々の練習の中に基本があるのです。基本を学びながら創作作品を創るときには好みに応じて古人の書かれた好きな作品の中からその筆法・構成を学び取るようにするのが良いと思います。
2017年5月14日日曜日
雅塾通信 第111号・・・てのひらに小じわ目につく寒の朝(H29.3.1)
2月は逃げると言われていますが逃げられないように一日一日を意識しながら過ごしました。
若い頃からの好きなフレーズに”無理なく無駄なくあきらめず”というのがあります。「無理なく…あきらめず」と言うところは納得していましたが「無駄なく」の部分が引っかかっていましたので少し変えて”無理なく急がずあきらめず”と言い換えていました。何をもって無駄と言うのだろうかとちょっと自信がなかったのです。しかし最近は、この世に「無駄なものなし」と割り切って”無駄なく”に戻っています。無駄なものはないと思うと楽になりました。
2月11日、12日の両日、藤岡公民館文化サークルの展示会が市民ホールで開かれました。
生け花、手芸、刻字、篆刻、織物、俳句、絵画、絵手紙、紙粘土、ペン、書道など34教室の参加で、書道だけでも8教室、約90名の方が出品しました。
二日間の展示ですが作品作りから解放された生徒さんたちは、見学に来た知人・友人たちに「駄目だ駄目だ」と照れながらも楽しそうに時を過ごしていました。
24日~27日まで桐生市文化会館で聖筆選抜100人展が開催されました。雅塾からは小生と菅生紫玉さんが出品しました。初日には紫玉さん、三葉さんの塾生二名と松本・飯島・安原君ら書友7名で鑑賞してきました。
久しぶりにお会いした星野主幹は、100名選抜する苦労話や寄合書道会の難しさなど話されていました。
ご存知のように聖筆会は毎日系です。しかし種々の事情で創設時から一党一派に属さない事を運営方針としていますから公にはそのような発言をしているし会員は自由に活動しています。そのあたりの空気のありように主幹としては苦労があるようです。
書の世界はとてつもなく長い歴史と伝統の中で育ってきています。幅広い世界ですから自由な発想で学んでいきたいものです。
聖筆誌3月号に出品者100名全員の作品が載っていますのでご覧になってください。
「書道の展覧会は難しい、よくわからない」とはよく耳にする言葉です。
しかしどんな書展でも目的をもって開催されます。目的を知りたくさんの作品を見ることによって書の世界が広がり理解力も高まります。機会を見つけて鑑賞しましょう。
若い頃からの好きなフレーズに”無理なく無駄なくあきらめず”というのがあります。「無理なく…あきらめず」と言うところは納得していましたが「無駄なく」の部分が引っかかっていましたので少し変えて”無理なく急がずあきらめず”と言い換えていました。何をもって無駄と言うのだろうかとちょっと自信がなかったのです。しかし最近は、この世に「無駄なものなし」と割り切って”無駄なく”に戻っています。無駄なものはないと思うと楽になりました。
2月11日、12日の両日、藤岡公民館文化サークルの展示会が市民ホールで開かれました。
生け花、手芸、刻字、篆刻、織物、俳句、絵画、絵手紙、紙粘土、ペン、書道など34教室の参加で、書道だけでも8教室、約90名の方が出品しました。
二日間の展示ですが作品作りから解放された生徒さんたちは、見学に来た知人・友人たちに「駄目だ駄目だ」と照れながらも楽しそうに時を過ごしていました。
24日~27日まで桐生市文化会館で聖筆選抜100人展が開催されました。雅塾からは小生と菅生紫玉さんが出品しました。初日には紫玉さん、三葉さんの塾生二名と松本・飯島・安原君ら書友7名で鑑賞してきました。
久しぶりにお会いした星野主幹は、100名選抜する苦労話や寄合書道会の難しさなど話されていました。
ご存知のように聖筆会は毎日系です。しかし種々の事情で創設時から一党一派に属さない事を運営方針としていますから公にはそのような発言をしているし会員は自由に活動しています。そのあたりの空気のありように主幹としては苦労があるようです。
書の世界はとてつもなく長い歴史と伝統の中で育ってきています。幅広い世界ですから自由な発想で学んでいきたいものです。
聖筆誌3月号に出品者100名全員の作品が載っていますのでご覧になってください。
「書道の展覧会は難しい、よくわからない」とはよく耳にする言葉です。
しかしどんな書展でも目的をもって開催されます。目的を知りたくさんの作品を見ることによって書の世界が広がり理解力も高まります。機会を見つけて鑑賞しましょう。
登録:
投稿 (Atom)